企画・宣伝部門の誕生
昭和27年8月、かつて大宝物産の安田の下で働いていた片尾泰祥が、企画・宣伝部門の統括担当として入社してきた。そして少し前から自然社の結んだ縁でアルバイトにきていた西村恭一とともに広告宣伝に力を入れはじめる。
と言っても、責任者の片尾と担当者の西村の2人だけ。企画・宣伝部門は部どころか課とさえ呼べないような状況である。すすけた低い天井裏の太い棟木が露出しているところに、うす暗い30ワットの電球がぶらさがり、縁がすり切れている畳の上に机が2つという心細いスタートだった。
だが社長直轄ではじめたこの企画・宣伝部門が、やがてこの会社の大きな力になっていくのである。その片尾と西村の2人が手がけたのが「下着ショー」であった。
次々と名門百貨店を攻め落としてきて、残るは小林一三が手塩にかけて育てた阪急百貨店である。
ある日、その阪急百貨店の仕入れ課長が、
「お客さんの中には下着の付け方がわからん方もおられるから、実演してくれるとありがたいな」
と、ぼそりとつぶやき、早く取引をしたいと焦っていた和江商事の担当者が、
「阪急さんのためやったら何でもやらせてもらいます!」
と応じたことがきっかけで、後に引けなくなった。
そして売り場ホールで下着ショーをやるということに話が膨らんでいく。
関西らしくのりのいい展開に、阪急の課長は満面の笑みで、
「“下着ショー”やな」
と鼻の穴を膨らませた。
だが、そこは格式のある百貨店のこと。確かにファッションショーは流行しはじめていたが、“下着ショー”というのは刺激的すぎる。そこで正しい下着のつけ方を教える催しとして、「おしゃれ教室」という少々お堅い名前で様子を見ることにした。



