初値180円のほろ苦いスタート
昭和39年(1964年)9月7日、株式会社ワコールは東京・大阪証券取引所第2部、京都証券取引所への上場を果たす。
〈世の女性に美しくなって貰う事によって
広く社会に寄与する事こそ
わが社の理想であり目標であります〉
上場挨拶文のこの一節は、後に「ワコールの目標」として社員が日々拳々服膺(けんけんふくよう)するものとなる。
上場は創業者にとって大きな夢であり、創業者利潤も享受できるのが普通なのだが、この時のワコールの上場は、実は大成功とは言いがたいものであった。
それまでの株式市場の好調が嘘のように、いざ上場しようとした昭和39年後半から深刻な証券不況に突入していたのだ。上場の翌月に新幹線が開通し、東京オリンピックが開催されている。首都高速道路などを含む建設ラッシュの反動がきていたのだ。
その深刻さは、四大証券会社の一角だった山一證券が経営危機に陥るほど。時の大蔵大臣田中角栄が取引銀行の頭取や日銀副総裁を日銀氷川寮に集め、日銀特融というウルトラCの荒技で同社の危機を救うことを決めるのは昭和40年(1965年)5月のことである。
山一の日銀特融以降の2、3年は新規上場がほとんどできなかったことを考えると、きわどいタイミングだった。
そんなことから、ワコールの上場株価は180円と、今ひとつぱっとせず、もう少し前に上場したら500円はついたのに、という同情の声も聞かれた。幸一はさしたる創業者利潤を手にすることもなく、ほろ苦いスタートだった。
当時、ある程度の株を持っていたはずの渡辺あさ野や下田満智子に尋ねても、上場したことで利益が出たと喜んだ記憶はまったくないという。
だが、この時もし上場しなかったら、その後のワコールの歴史は大きく変わっていただろう。銀行融資だけでは、その後爆発的に拡大する商品需要に見合うだけの機動的な資金調達ができたとは思えないからだ。