パンツ屋の虎退治
幸一は家の玄関に虎の敷物を敷いた。そして毎日虎を踏みつけて出ていった。
蜷川虎三も負けてはいない。様々な会合で幸一のことを「パンツ屋が騒いでおりますが」と揶揄するようになる。
幸一は堀場製作所の堀場雅夫や京セラの稲盛和夫、村田機械の村田純一など、友人たちに協力を求め、まさに京都財界対革新府政という、京都を二分する全面戦争が勃発した。
6期目を目指す蜷川の対抗馬として、幸一たちは前自治省事務次官の柴田護を担ぎ出した。しかし役所や学校をがっちり押さえている革新勢力は強かった。昭和45年(1970年)4月に行われた選挙の結果は、柴田の49万1168票に対し、蜷川は63万6068票を集め圧勝する。
府知事同様、京都市長もまた革新陣営の富井清であった。昭和46年(1971年)2月、幸一は朝礼で、きたる市長選に全力で保守候補を応援することを社員に告げた。
「これまで、出張中はいざ知らず、京都にいて出社しない日は一日たりとてなかった。しかし今回は責任を持って選挙戦を戦わねばならなくなった。選挙期間中は会社に出てこられないが了解してほしい」
京都への思いのたけを込め、涙ながらに訴えた。はじめての長期休暇であった。
革新側からは富井に替わって京都市助役となっていた船橋求己が立候補することとなる。対する幸一は、地元財界はもちろん、文化人、学者、医師グループなどを集めて「京都を愛する会」を発足させ、民社党衆議院議員だった永末英一を担ぎ出した。
2月1日の告示から投票前日までの20日間、幸一は永末を必死に応援した。2月21日の投票率は過去最高となる盛り上がりを見せたが、永末は劣勢のまま激しい選挙戦を戦わねばならなかった。
ともに選挙戦を戦った村田機械の村田純一会長は、筆者のインタビューに答え、当時のことを次のように語ってくれた。