シー・ユー・アゲイン!
幸一は人脈形成に積極的だったが、その象徴が大正会である。大正に生まれたということだけが入会資格なのだが、これほど入るのが難しい会もない。
幸一は例によって千宗室の推薦によりフリーパスで入会させてもらった。
幹事役は石橋湛山元首相の名参謀として知られた石田博英(元運輸大臣)。会員には中曽根康弘(後の首相)や帝国ホテルの犬丸一郎などの有力政治家や斯界の名士が名を連ねていたが、三船敏郎、森繁久彌、藤山愛一郎に森光子といったきら星の如き売れっ子芸能人の前では存在がかすみがちだ。ともかく月1回集まって大いに盛り上がりながら親睦を深め、幸一の人脈は一気に広がっていった。
昭和39年(1964年)7月、大正会メンバーである中央公論社の嶋中鵬二社長の勧めで日本YPO(日本青年社長会)にも入り、いつしか会のリーダーとなっていく。ここで得た一番の収穫はサントリーの佐治敬三との出会いであった。佐治とは終生の友情を温めることとなる。
ちょっと得意気に、
「YPOでの俺の順位は5番目くらいかな」
と、妻の良枝に自慢したところ、
「なんや、1番と違うの?」
と切り返されてぐうの音も出なかった。
佐治のあとを受けて日本YPO第4代会長に就任したのは、実は良枝の一言に発奮したからだったのである。
昭和41年(1966年)のこと、20人ほどの日本YPO会員とともに、松下幸之助の話を聞く機会があった。すでに松下政経塾の構想を抱いていた松下が、若い経営者たちの意見を聞きたいと考え、場を設定したのである。
松下は72歳とすでに老境に入っており、少し聞き取りにくい声になっていたが、身にまとったオーラは衰えていない。積んできた経験の量と思いの強さ、思索の深さ、どれをとっても圧倒される思いだった。
(これが“経営の神様”か!)
かつて労働争議で苦しんでいた際、神の啓示のような言葉に聞こえた出光佐三の講演と同様の、いやそれ以上の感動を覚えた彼は、全身に震えが走るほど興奮していた。そして講話が終わった瞬間、思わずこう叫んでいたのだ。
「松下さん、命と金をくれませんか!」