1泊するとこができたらええなあ

 そのうち幸一は“東京飛脚”に内田を同行させるようになった。

 男性社員はそれぞれの得意先回りで忙しい。そこで、内勤の彼女に目をつけて、荷物持ち代わりに連れて行ったのである。なんとも乱暴な時代ではある。

 大型のファイバートランク2ケースに商品が一杯入っている。救いは比較的商品自体が軽かったことだろう。

 夜行列車だから席が取れないと大変だ。上りは特に混む。この頃になるとコツをつかんできていて、まず若い服部清治に行かせて席取りをしておく。幸一でさえ1等や2等には乗らず3等列車だった。

 宿賃を節約するため、相変わらず日帰りである。特急列車の「つばめ」でさえ東京まで行こうとすれば7時間半ほどかかった時代。夜行だと10時間以上かかる。東京に出るのは、今で言えばアメリカ出張くらいの時間を要したのだ。

 宿屋に泊まるために当時必要とされた米持参でローカル線を乗り継ぎながら、大変な思いをして九州出張に行っていた柾木平吾にも、

「昔から出張員の失敗は酒と女。飲むなら京都で飲め」

 と命じていたくらいで、幸一自身もきわめて禁欲的な出張であった。

 夜行列車は朝6時半に東京駅に着く。半沢商店が店を開ける8時までの間を利用して、銀座に出来たばかりの東京温泉で汗を流し、朝食をとってから半沢商店に乗り込んだ。

 半沢の商品は人気があるから、仕入れるのは大変だ。頭を下げ下げしながら、ずっとできあがってくる商品の横にいて、ほかの店に持っていかれないよう見張っていないといけない。

 夕方6時頃、完成された商品がようやくたまってきたところで、

「ちょっと分けていただけますか」

 とさらにもう一度頭を下げ、ようやく商品を手にすることが出来た。

 ブラパットと違いコルセットはかさばるので持参した鞄だけでは間に合わない。一反風呂敷と呼ばれる大判の風呂敷に包んで逃げるように店を出て、再び夜行列車に飛び乗るのである。

 列車に乗った頃にはもうくたくたになっていた。

「もうちょっと会社が立派になったら、どこかこのへんに1泊できるとこができたらええなあ」

 熱海を通る時、幸一が独り言のように口にしたのを内田は記憶している。

 その昔、追われるように仙台をあとにして近江八幡に向かう途中、父粂次郎がやけになって持ち金すべてはたいて散財したあの熱海である。その時のことを思い出していたのかもしれない。

 幸一たちは1週間に1度の割合で、京都と東京を往復した。すると3ヵ月ほどしたところで、あれほど悲惨だった和江商事の収支は黒字に転じる。

 ところがそのうち半沢商店から、

「和江さん、申し訳ないが、おたくのブラパットはもういいよ」

 と告げられるのだ。ラテックス(ゴム原料)製ブラパットが出回りはじめたからだった。

 それを手に取ってみた瞬間、幸一ははっきりと悟った。

 (こらあかん……)

 柔らかくて、これまでの針金の入った製品とは比べものにならない装着感だ。はるかに値段は高いのだが、それでも従来品はあっという間に駆逐されていった。

 これでブラパットを卸すことはなくなり、コルセットの仕入れだけが残った。同時に和江商事の主力商品も、ブラパットからコルセットに変わっていくのである。

「コルセットを売るにも見栄えが大事や。箱の中張りを桃色にして中味のコルセットが浮き上がるようにしてもらえんか」

 この頃出入りしていた石原泰西堂の社長に頼み、化粧箱にも工夫を凝らした。

 デザインや広告といったものに気を遣うのは創業期からの伝統で、そのうち京都市立美術大学(現在の京都市立芸術大学)の学生であった西村恭一をアルバイトで雇い入れ、こうした分野を担当させるようになる。

 工夫を凝らしたのは化粧箱だけではない。仕事場もそうだった。

 幸一は改築改造が好きで、畳の部屋では仕事がしにくいと板張りにするのはまだ序の口。仏壇と押し入れだったところが廊下になったり、階段の位置を変えてみたり、屋根裏を改造して社長室にしたりと、しょっちゅう大工が出入りしていた。

「『一兆』に行ってくるわ」

 商談で取引先が来ると、時折、近所の路地奥の小料理屋「一兆」に客を連れて行く。頼むのは決まってウズラの卵に山芋。

「まず精をつけまひょか」

 そんな時代であった。