『典座教訓』とは、一言で言えば、調理の作法のこと。「典座」とは、台所の総責任者である料理長のことで、『典座教訓』には、その典座の果たすべき役割や心構え、食材や食器の管理方法などが詳しく書かれている。
道元禅師は、食事を作る際の心構えとして「喜心・老心・大心」という三つの心を挙げた。「喜心」とは、作る喜びを忘れない心、「老心」とは、相手の立場を思って丁寧に作る心、「大心」とは、偏りを捨てて深く大きな態度で作る心のことだ。
「道元禅師は、どんな粗末な食材に接しても、上等な食材に負けないおいしさを引き出すことが、典座の腕の見せどころなのだと記しています。どんな条件下でも、典座が修行僧のことを思って誠心誠意料理に向き合うことで、その料理に“仏法のソース”が掛かります。典座とは、誠意を尽くして仏行を実践する重要な仕事なのです」
一方の『赴粥飯法』は、禅の食事作法を細かく定めた規則のことだ。そこには、修行に励む禅僧が、食事を取るときに用いる「応量器(個人の食器)」や箸の作法、「五観(ごかん)の偈(げ)」、食事中の禁止事項などが丁寧に記されている。
「五観の偈」とは、5項目の食事作法のこと。食事がいかに多くの手間を経て運ばれてきたかを考え、自分が目の前の食べ物を食するに足るかどうかを思い、「貪瞋痴(とんじんち)(貪(むさぼ)り、怒り、愚かさ)」という三毒に気を付けて、食を単なる欲の対象ではなく健康な体を維持する薬として、仏の道を実践するために食事をありがたく頂く、というものだ。
「全ての食材は、野菜であろうと何であろうと、生き物であるといえます。その生き物の命を頂きながら修行をすることは、やがて成仏してあらゆる生き物を救うことにつながります。普段私たちが食前に“いただきます”と唱えるのは、食べ物になってくれた生き物に、覚悟を持って感謝するため。そのような考えが根底となっています」
インドでは生産活動は禁止されていた。それは、所有欲から遠ざかるという意識の下に決められたと考えられる。したがって、仏教登場以前より出家者に食事などを提供する風習が定着していたインドでは、托鉢(たくはつ)によって食事が賄われたが、中国・日本では、その風習がないので托鉢で生命を維持することが難しい。
「そこで禅宗では、原点に帰って釈尊が何故生産活動を禁止したのかを考え、食事を作るのも頂くのも修行の一環として位置付け、体と心の在り方を禅僧ないし仏としてふさわしい『仏道』になるように定めたのです。こういった身心の在り方は、食事のみにとどまらず、日常生活のあらゆる場面に定められています。つまり仏としての生活が規定されているのです。この禅の発想は、日本の○○道と呼ばれる文化につながっています。本来、どうでもよいこと、もしくはむしろ悪いことに、ルールを作って昇華しているのです。○○道では、体の作法・技術とともに、心の在り方も規定されて人格の向上も導かれています。つまり日本人には、技において優秀な者には、それにふさわしい人格がなければならない、という考えが暗黙に了解されているように思われます」