やがて70年代に入ると、欧米での禅の受け止められ方が変化した。それまでカウンターカルチャー※2の受け皿だった禅が、高学歴・高収入のアッパーミドル層に積極的に受け入れられるようになった。仕事上の過度な競争でストレスを抱えた人たちが、坐禅をする場所を訪れ、日々の生活の心の置き方を見いだすようになったのだ。スティーブ・ジョブズもその一人だった。
「ジョブズの師匠となったのは、曹洞宗の僧侶の乙川弘文(おとがわこうぶん)。本学の卒業生です。ジョブズは当初、宗教的瞑想や薬物の使用によって、自己の内的世界に没入しそれを高めようとしていたようですが、やがて直感的でシンプルな思考の重要性に気付きました。曹洞宗の“ただ坐る”という教えが、彼の感性にマッチしたのでしょう。アップルの製品には、そのシンプルさが反映されているように思えます。ジョブズは大本山永平寺での修行も望んだのですが、乙川から『事業の世界で仕事をしつつ、純粋な精神世界とつながりを保つことは可能なのだから、出家する必要はない』と諭され、ビジネスに邁進(まいしん)しました。彼が常に黒いシャツを身に着けていたのは、禅僧の黒い作務衣(作業着)をイメージしていたともいわれています」と石井教授は語る。
マインドフルネスの
禅的思考とは
マインドフルネスが誕生したのは40年ほど前で、その言葉を最初に用いたのは、ベトナムの禅僧であるティック・ナット・ハン。釈尊の教えである八正道の一つ「正念(常に気付いていること、智慧(ちえ)で観察すること)」が元になっている。79年、マサチューセッツ大学医学部名誉教授であるジョン・カバット・ジンが、疼痛(とうつう)改善の治療法として「マインドフルネスストレス低減法」を提唱。その後オックスフォード大学で、精神疾患の治療としてのマインドフルネス認知療法が開発され、ブームが到来した。
「マインドフルネスに用いられている禅的思考は、思考を停止せず、かといって一点に集中することもせず、心に浮かぶことをそのまま浮かばせ、捕まえようとせず流し去ることにあります。心を内側にだけ向けるのではなく、意識を外にも向け、自分の位置を明確化する。現実逃避でも、自分を変えるものでもなく、あるがままの気付きなのです」(石井教授)