日戸 注目が高まったきっかけは、経済産業省が2020年に「人材版伊藤レポート」(持続的な企業価値の向上と人的資本に関する研究会報告書)、22年に「人材版伊藤レポート2.0」(人的資本経営の実現に向けた検討会報告書)を発表したことだと思いますが、結局のところ、企業価値を上げていくための戦略を考えるのも、それを実行するのも人です。

 かつて、日本のものづくりの力を競争力の源泉として活かすために技術経営(MOT)への関心が非常に高まったことがありました。また最近は、私がオムロンで取り組んだROIC(投下資本利益率)経営について相談を受けることが増えています。こうした経営手法を駆使して、企業価値を高めるのも、やはり人です。

 どのような経営手法を使うにしても、最終的に行き着くのは、人がどう付加価値を創造し、それを企業価値の向上に結びつけていくかということです。そういう観点からいえば、人的資本が企業にとって最も大事な資本であることは間違いなく、人の競争力や創造力、チーム力といったものが企業価値の向上を大きく左右すると考えるのは理にかなっています。

 ただ、いまのところ人的資本経営として多くの企業が取り組んでいるのは、従業員の多様性や健康管理、労働環境の改善などに関わることが中心になっているように見受けられます。

 それらはとても大事なことですが、その取り組みを事業の成長や収益力アップ、そして企業価値向上にどうつなげていくかというシナリオや因果関係が、必要十分な水準まで突き詰められていないのではないかと感じます。

 どの企業にとっても、人的資本経営が試行錯誤の段階にあることは承知しています。しかし、因果関係をロジカルに説明できるものでないと、せっかくの取り組みが企業価値に寄与しない可能性があります。

 人的資本経営に取り組むことは、本質的にすごく意義があることです。しかしながら、ROIC 経営のようにもう少しドライにとらえて、ロジックを組み立てなければならない部分があるんじゃないでしょうか。

 その意味でいうと、人的資本に関わる組織マネジメントや人のモチベーションマネジメントのレベルを、もっと上げていかなくてはいけないのかなという気がします。

人的資本投資は企業価値に帰結する そのストーリーをロジカルに組み立てよ日戸興史
日戸興史事務所代表、元オムロン 取締役 専務執行役員 CFO兼グローバル戦略本部長
2023年3月まで、オムロンの取締役専務執行役員CFO兼グローバル戦略本部長として、グループビジョン策定、中期経営戦略策定、ROIC経営を推進し、同社の企業価値向上に貢献。 現在は日戸興史事務所代表として、オムロンでの経験を活かし、ROIC経営を軸に講演や経営支援活動を行う。ワコールホールディングス社外取締役、ジーエス・ユアサ コーポレーション独立社外取締役、T&Dホールディングス独立社外取締役(監査等委員)。日本CFO協会理事、京都大学iPS細胞研究財団理事なども務める。

企業がきちんと稼げば社員に成長機会を提供できる

久保田 人的資本経営を多義的にとらえすぎている面があると、私は思います。多様性を含めたサステナビリティの観点はいまの経営に不可欠です。とはいえ、企業は経済的価値を創出しないと、社会的価値や環境的価値を生み出せませんし、何より存続できません。

 人的資本経営が重要だからといって、あれもこれもやろうとすると、そもそも企業のリソース(経営資源)には限りがありますから、すべてが中途半端になり、結局何の成果も上がらないという事態を招くリスクがあります。そうなると、時間とコストをかけたのは何のためだったのか、人的資本投資の予算を削ろうという判断に傾きかねません。それでは、本末転倒です。

 ですから、人的資本経営にも選択と集中が必要です。日戸さんがおっしゃる通り、人的資本経営は最終的に企業価値向上に行き着くべきものであり、そのためには事業戦略と連動し、経済的価値の創出に貢献するものでなければなりません。

 その点をシンプルかつドライにとらえたほうが、企業としての狙いどころを整理しやすいですし、事業戦略における貢献度をモニタリングしやすいと思います。

日戸 人的資本経営の意義を社員の立場から考えた時、給料とか福利厚生、労働環境なども当然大事なのですが、自分がこの会社で何をやり遂げたいか、どういうチャンスを得られて、それを通じて自分がどう成長できるのか。そういうことが一番の報酬だと思うんです。

 成長という報酬を与えるために、会社は利益を上げ、再投資しなければなりません。投資というのは人に対する投資だけでなく、新規事業開発、既存事業の発展、DX による生産性向上といったところも含めてしっかり投資して、社員が活躍できるチャンスを広げ、それを通じて人が成長する。その結果、事業成長にドライブがかかって、企業価値向上に結びつく。

 ですから、稼げる会社になることが人的資本経営の一丁目一番地だと私は思っていて、そういう意味ではROIC 経営とまったく同じです。企業としてどこに投資するのか、それはなぜなのか。それを明確にしてメッセージを発信していき、「自分はこれをやりたい」という社員の意欲をかき立て、チャンスを与える。個人は、そういうチャンスがあるかどうかで企業を選ぶ。

 企業が社員を選ぶけれど、社員も会社を選ぶ。本来、企業と社員はそういう対等な関係であるべきで、労働力不足の中では今後ますますそうなっていくと思います。きちんと稼いで成長の機会を与え、成長のために新たな能力開発が必要なら、社員のスキルアップやリスキリングにも投資する。そういう企業価値向上サイクルの中に、人的資本投資をクリアに位置づけるべきじゃないでしょうか。

人的資本投資の2つの大きな課題

久保田 実際のところ、人的資本投資を企業価値向上サイクルの中に明確に位置づけることができずに悩んでいるCHRO(最高人事責任者)が多いです。それができないのは大きく2つの課題があって、一つはどこにどう投資すればいいのかわからない、つまり投資の判断基準が明確でないこと。もう一つは、投資効果の測定方法が確立されていないため、投資をいつ回収できるのかわからないことです。

 この2つの課題をクリアできないと、投資領域の選択と集中が進みませんし、効果が曖昧な投資をいつまでも続けることになってしまいます。これは事業ポートフォリオマネジメントにおける課題と同じです。成長事業の選択と集中ができないと本来は伸びる事業を伸ばせませんし、逆に投資リターンが低い事業をずっと存続させることになってしまいます。その結果が、日本の失われた30年を招きました。

 成長事業領域はどこかを見定め、その事業を5年後、10年後にどこまで伸ばすかという数値目標を決め、どういう能力を持った人材が何人必要なのかを明らかにする。その将来像と現状を比較してギャップを埋めるために、必要な能力を持った人材を採用する、あるいはリスキリングなどによって社内で育成する。そのために、今年度はこれだけの人的資本投資を行う。そのように事業ポートフォリオマネジメントとリンクした人材ポートフォリオマネジメントを行うことで、企業価値向上サイクルの中に人的資本投資を明確に位置づけることができます。

人的資本投資は企業価値に帰結する そのストーリーをロジカルに組み立てよ久保田勇輝
アビームコンサルティング執行役員 プリンシパル 人的資本経営 戦略ユニット長
パッケージ会社や外資系コンサルティングファームを経て、アビームコンサルティング入社。人事戦略、プロセスやテクノロジーの事業責任者として、多くの企業の人事戦略策定、タレントマネジメント、DX構想から業務設計、システム構築などのコンサルティングに豊富な経験を有する。人的資本経営 戦略ユニット長。

日戸 「風が吹けば桶屋が儲かる」の例えのように、どこに投資するとどういった形でいつ成果を刈り取ることができるかという因果関係が直接的ではなく、一定の距離や時間的なずれが生じる場合があります。人的資本投資がまさにそうです。

 桶屋が儲かるという成果ないし目標から逆算して、だからいまここに風を吹かせる必要があるというロジックやストーリーを組み立てる必要があります。

久保田 おっしゃる通りで、その企業価値向上ストーリーがないと事業ポートフォリオ改革も企業変革も、何も始まりません。

 5年後、10年後にその企業なり事業がどうありたいのか、それを数値目標で表すとどうなるのか。まずはそれをはっきりさせたうえで、将来のあるべき姿を実現するための人材ポートフォリオを定め、人的資本投資のPDCA サイクルを回すための指標を決める。その指標は特定スキルを持った人材の充足率であったり、1人当たり生産性であったり、事業の特性や企業価値向上ストーリーによってさまざまです。

 いずれにしても、まず人的資本経営の核となるストーリーがあって、ストーリーの帰結点とのギャップを埋めていくのが人材戦略であるといっていいと思います。

価値創造ストーリーに意志と覚悟を埋め込む

日戸 企業はいろいろな重点課題を設定して、その課題解決に向けて日々の活動を行うものですが、その課題定義がものすごく重要です。いま久保田さんがおっしゃったように、ありたい姿と現状のギャップこそが課題なのです。