スポーツに例えるとわかりやすいと思いますが、オリンピックで金メダルを取りたいのか、日本代表としてオリンピックに出場したいのか、それによって課題の大きさや内容は変わります。そこがきちんと定義できていないと、どれだけ速く走れるようになればいいのかという目標タイムや、どんな練習にどれだけ時間をかければいいのかといったトレーニングプランが立てられません。チーム競技の場合なら、こういう能力を持った人を何人充足しようという計画も変わってきます。
もちろん、8年後のオリンピックで金メダルを取るのが最終目標で、中間目標として4年後のオリンピック出場を目指すというストーリーでもいい。どちらにしても、ありたい姿から逆算して課題を定義しないことには、戦略は立てられないし、実行プランをつくることもできません。
久保田 本当にそうですね。ストーリーをつくるうえで重要なのは、自分たちの意志や覚悟がどこまで埋め込まれているかです。企業によっては、「経営ビジョンにこう書いてありますが、これを達成するためにどこにどれだけの投資をするお考えですか」と聞くと、「具体的にはまだ決まっていません」といった答えが返ってくることがあります。
具体的な投資計画まで落とし込まれていないということは、到達点に対する覚悟が甘いか、必ず到達してみせるという強い意志を伴わない高すぎる目標を設定しているかのどちらかだと思います。
意志を込めたストーリーを、覚悟を持って実行する。そうでないと、人的資本経営が光を放つことはありません。
日戸 実行を伴わないストーリーは光らないし、誰にも響きません。ある大学教授は、「パーパスを額縁に入れて飾っているだけの企業が多すぎる。重要なのは実行だ」と語っています。
パーパス経営も人的資本経営も、壁に掲げて拝んでいるだけでは意味がありません。
久保田 投資家への情報開示という制度対応を優先すると、実行が伴わないストーリーやビジョンになりがちです。
日戸 統合報告書などもそうですね。掲げたビジョンの達成は容易ではないけれど、必ずやり遂げるという経営者の強い覚悟がないと、周りの人たちは奮い立たないし、共感を集めることもできません。
久保田 企業としてのありたい姿が、単なる空想や外観を着飾っただけの姿ではいけません。目標値の設定を含めて開示することが重要で、開示したからには、その目標値は取締役会や経営執行会議でモニタリングすべき対象となります。
ですから、実行にコミットするために情報開示する。それが開示制度の持つ本来の意義だと思います。そして実行にコミットすることで、将来の企業価値への期待を上げていく。そこが本質だろうと思います。
日戸 投資家はそういう情報開示を望んでいます。結果的に目標値に届かなかったとしても、その理由をきちんと解き明かし、次にどういう手を打つのかを説明すれば、投資家からも社員からも信頼を得られます。
言っていることとやっていることが違うと信頼されないのは、人も企業も同じです。
重要課題の解決を一人の経営者が担うのは無理
久保田 先ほど日戸さんから、人的資本経営に関わる組織マネジメントや人のモチベーションマネジメントのレベルを上げなくてはいけないというお話がありましたが、人的資本経営を推進するマネジメント体制についてもう少し議論したいと思います。
これまでの日本企業の経営チームは、各事業部門のトップの集まりであることが多かったと思いますが、全社的な事業ポートフォリオ改革といった大きな変革を視野に入れた経営チームの体制は、特定の事業を管掌しないCEO、CFO、CHRO、CSO(最高戦略責任者)といったCxO で構成されることが望ましいと私たちは考えています。全社をフラットに俯瞰して、変革を実行し、企業価値を高めていくためです。
事業戦略や人事戦略など、各領域の根幹となる経営戦略をこの経営チームで定め、それに基づいて人や技術、知的財産など機能別のマテリアリティ(重要課題)の選択と集中を行う。それが、人的資本経営を推進するマネジメント体制のあり方だと思います。
日戸 CxO は、経理・財務や人事といった機能部門の代表という意識ではいけません。よくいわれることですが、日本の場合は、CFO がスーパー経理部長・財務部長だったり、CHRO といっても実態は人事部長だったりする企業が結構あります。本来、CxO は部門代表ではなく、経営チームの一員です。
久保田 ある企業のCHRO から相談を受けた際、その人は「投資回収の時期がはっきりしないから、その人的資本投資は承認できないとCFO に言われた」と悩んでいました。お互いが部門代表の立場から抜け切れていないという印象を持ちました。
日戸 投資回収の時期がはっきりしないのなら、どうしたらはっきりさせられるのか。どこにどう投資して、どうやって回収するかを経営チームの一員として一緒に考えるのがCxO です。
久保田 経営を自分事として意思決定し、参画責任を持つこと。結局のところ、経営チームの一人ひとりにそれができていないと、人的資本経営もサステナビリティ経営も推進することはできないと思います。
たとえば、人的資本経営を進めるうえで、労働力人口の減少という日本の構造問題は避けて通れません。ある事業を成長させるために、特定のスキルを持った人が何人いるかという話になった時、労働市場から必要なだけ採用できるわけではありません。
そうなると、テクノロジーを活用して1人当たりの生産性を上げながら、既存事業の人材を成長事業にシフトさせるとか、デジタル技術と人の能力を組み合わせて付加価値を高めるといったことを検討しなければならず、CTO(最高技術責任者)やCDO(最高デジタル責任者)がCHRO と一緒になって人材戦略を議論する必要があります。
つまるところ、これだけ経営環境が複雑化し、変化も速い時代には、一つの重要課題の解決を一人の経営者が担うのは無理なのです。
経営チームは部門代表者の集まりではない
日戸 大きな課題ほど小さく分解して解決したくなるものですが、部門をまたぐ重要課題は経営チームの総力を挙げて、組織横断的に解決していくしかありません。
小さく解決しても企業価値の向上につながることは少ないので、本当の意味でのチーム経営が、ますます重要になっています。
久保田 日戸さんが考える、経営チームのあるべき姿とは、どのようなものですか。
日戸 先ほど述べた通り、部門代表ではなく経営全体を俯瞰して考え、行動できる人の集まりであること。そのためには、CxO は少数精鋭がいいと思います。私がCFO になった頃のオムロンは、CEO と私のほかはCTO が一人だけ。後からCHRO という役職をつくりましたが、いまでもCxOはその4人で、4人ともグループ全体の経営を見ています。
経営執行会議にCxO 以外の事業部門トップや本社の機能部門トップが参加することがあってもいいと思いますが、あくまで会社全体の企業価値向上を実現するための会議ですから、部門の利益代表者の集まりになってはいけません。
内閣に例えると、国務大臣は各省庁の省益の代弁者であってはいけない、国家や社会全体の利益の最大化を考える立場だということです。そのうえで、CEOはチーム経営に対して強いイニシアティブを発揮すべきだと思います。
久保田 私は企業のカルチャー変革を支援することもあるのですが、経営チームが部門利益の代弁者の集まりになっていると、CEO がカルチャーを変えようとどれだけ頑張っても難しいですね。
会議をしていても、CEO と部門代表者の1対1の会話になってしまって、他のメンバーは関心が薄く、チーム全体で活発な議論が巻き起こりません。極端な場合、会議の前に部門代表者がCEO に根回ししていて、会議が事後報告と形式的な承認の場になっています。
日戸 部門利益の代弁者が集まったら、そうなりますよね。CEO が一人で重要課題を解決できないからこそ、それを補完する役割としてCxO がいて、経営チームでフラットに議論して組織としての意思決定を行う。そういうチーム経営を実質的に機能させる体制をつくることが重要です。
久保田 コーポレートガバナンス・コードの改訂により、上場企業は取締役のスキルマトリックスの開示を求められるようになりました。多様な観点から経営を監督することを促すためのものですが、取締役会に限らず多様な専門性を持つ人が集まって率直に議論すれば、必ず衝突や摩擦が起こります。
でも、多様な観点で議論することは、企業価値を高めるうえでも、リスクを回避するうえでも、非常に有意義なことです。
日戸 オムロンは売上高構成比も従業員比率も海外のほうが高いので、日本人と海外従業員の間でコンフリクト(摩擦)が起こることがありました。そこを何とか丸く収めようとする日本人が多いのですが、私は日本人にも海外従業員にも「前向きなコンフリクトはどんどん起こしていい」と言っていました。
ビジョンや課題を共有できていて、それを達成するため、解決するためにそれぞれの視点から意見をぶつけ合うポジティブなコンフリクトは、企業の成長にも社員本人の成長にもつながります。
人を批判するだけとか、足を引っ張るようなネガティブなコンフリクトは厳禁ですが。
久保田 多様性の本質は、ポジティブコンフリクトを価値創造の原動力にすることですよね。
ROIC逆ツリーの人的資本経営版を開発
久保田 部門代表ではなく経営チームの一員としてCEO を補佐し、他のチームメンバーとのポジティブコンフリクトを恐れず、専門的な観点から議論を展開できる。そういうCxO 人材をいかに育成していくかもこれからの課題です。
日戸 やはり事業経験は必要です。本社の機能部門だけしか経験がない人が、事業戦略を深く理解して、それとリンクした人事戦略なり、財務戦略なりを立案・実行していくのは難しいと思います。
久保田 事業部門の責任者を経てCHRO やCFO になる人が増えているのも、そういう理由からでしょうね。
日戸 シングルファンクションの経験だけの人が、経営チームに参画するのは本人にとっても企業にとってもリスクが高いと思います。
私のオムロンでの経験をいうと、技術者として中央研究所に入った後、事業部門での技術開発や商品開発、米シリコンバレーに駐在しての技術導入、本社での経営企画を経て、経理・財務や人事の責任者をやり、CFO になりました。
会社がどこまで意図的に私のキャリア開発を行っていたかはわかりませんが、CFO とグローバル戦略本部長を兼務する立場になった時、過去のさまざまな経験が大いに役に立ちました。
いまの時代であれば、本人のキャリアプランや希望を聞きながら、会社側がそれに沿ったキャリアパスを示し、チャレンジの機会を与えて計画的に育成するということになると思います。
久保田 欧米企業のCxO は、財務や人事、IT、法務といった専門性を極めた人がなるポジションだというイメージがありますが、たとえば人事部門の社員であれば、HRBP(人事ビジネスパートナー)として事業責任者をサポートした経験を持っています。
ですから、事業のことをわかっていますし、会社全体の経営戦略およびそれとリンクした人材戦略を理解し、そこにベクトルを合わせながら事業部としての人的資本投資を計画、推進する経験を積んでいます。
日戸 本社の機能部門の社員が事業部門の中に入り、事業の支援者になると同時に、会社全体の戦略と事業戦略のベクトルを合わせるというのは、重要なポイントですね。
HRBP もそうですが、本社の財務やIT、法務からも事業部門に人を派遣して、事業責任者を補佐する。それはCEO をCxOが補佐する経営チーム体制と同じフラクタル(自己相似性)な構造を事業部門の中につくるということです。それが、本社と事業部門のベクトルを合わせることになりますし、将来のCxO 人材を育成することにもなります。
久保田 オムロンのROIC 経営が、ROIC逆ツリー展開とポートフォリオマネジメントの2つの仕組みで成り立っていることはよく知られています。
ROIC 逆ツリーは、各事業の特性や課題に応じてROIC を各部門のKPI(重要業績評価指標)に分解して落とし込むことで、部門担当者の目標と会社全体のROIC がロジカルにつながる構造を可視化しています。
我々アビームコンサルティングでは、このROIC 逆ツリーの人的資本経営版を開発しました。人的資本経営に関して、「風が吹けば桶屋が儲かる」ロジックを可視化したフレームワークともいえます。これを使うと、経営側が見た時も、事業側、人事側が見た時も、いま取り組んでいる人的資本投資や人事施策が事業のどの部分に効果があって、最終的に事業成長や企業価値にどうつながるのかが、わかるようになっています。
ある企業でこのフレームワークを導入したところ、既存の人事施策を継続していても、将来必要な人材要件を満たせないことがわかり、前例がない施策の実行につながりました。
例え話としていうなら、ソフトウェア開発人材を育成するためにe ラーニングのプログラムを実施してきたけれど、それだけではソフトウェア開発技術を活かして、新しい事業を立ち上げ、運営できる人材を育てられない。そこでベンチャー企業への派遣プログラムをスタートさせるといった、尖った施策のアイデアが出てくるようになりました。
仮説をつくって検証しアップデートを続ける
久保田 ROIC 逆ツリーの人的資本経営版を開発したのは、人的資本経営を可視化することによって、経営の意思決定に組み込むことができると考えたからです。このフレームワークを使うことで、同じロジックの下にみんなが数字に基づいた議論ができるので、実際に議論が活性化します。
人的資本経営はCHROだけがリードするものではありませんし、人事部門だけが担うものでもありません。企業価値を高めるために全社で取り組むものであり、一人ひとりに貢献できることがあります。
その点をふまえて、中長期的な視点で人的資本経営を推進する企業が増えることを願っています。
日戸 企業が社会的存在である以上、企業価値を向上させ続けなければなりません。企業価値を高めないと、人が活躍するチャンスをつくることもできません。ですから、人的資本経営は、企業にとっての一丁目一番地。その信念を持って、ぶれずに実行することが大事です。
人的資本経営は発展途上で、ベストプラクティスが確立されているわけではありませんから、いまはみずから仮説をつくり、数字を使って検証して、アップデートを続けるフェーズです。
究極の目的である企業価値の持続的な向上に向けて、仮説と検証、アップデートをひたむきに続ける。それができれば日本は確実によくなりますので、すべての企業にそれを期待したいですね。
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