拡張財政が物価を押し上げる
賃金・物価スパイラルの懸念
河野 一方、コロナ禍が収束した後も、主要国は拡張財政を繰り返しています。国際政治は不安定化し、欧州は米国に安全保障を頼れなくなり、防衛費拡大で拡張財政を続けています。米国もトランプ減税など、景気刺激的な財政政策を続けています。
加えて、昨年は、春のトランプ関税の悪影響を吸収すべく、米国を含め、各国が拡張財政と金融緩和を進めました。そのおかげで予想以上に景気が浮揚したところに、中東危機がやって来たわけです。拡張的な財政政策は、21~22年と共通しています。
特に日本の場合、高市政権が責任ある積極財政の旗の下で、拡張財政を進めています。中東危機についても、ショックを財政で封じ込めようとしています。イラン紛争が短期で終結するのなら、経済・物価への影響は限定的かもしれません。
しかし、長期化した場合は様相が変わります。本来であれば価格上昇でガソリンに対する需要も抑制されるはずですが、補助金で価格上昇を抑えている。電気・ガス料金も同様に財政で価格上昇を抑える政策が取られることになると、エネルギー使用量は変わりません。エネルギー価格高騰が続くと、財政負担は膨らみ、貿易収支赤字が拡大し円安加速の懸念が生じます。
生産性が上がっているから、増えた付加価値の分配として実質賃金をきちんと上げてくださいというのが私の主張でしたが、昨年の秋ぐらいから、価格をいくらでも上げることができるから、賃上げできますという大企業経営者が増えてきました。
20年基準になったGDP(国内総生産)統計を見ると、ユニットプロフィット(単位当たり企業収益)がかなり上がっています。22年のウクライナ紛争による資源高のコスト転嫁以上に価格が引き上げられています。23年以降の賃上げでユニットレーバーコスト(単位当たり労働コスト)は上がっていますが、それ以上に価格転嫁され、ユニットプロフィットは上昇しました。
そういった意味では、物価と賃金のスパイラルのリスクも出てきているとみています。イラン紛争が起きて1カ月以上たちました。3月の大企業の春闘における賃上げ率は5%を超えました。これから、中小企業が同様に賃上げをできるかどうか。中小企業がきちんと賃上げできるように、大企業に対して中小企業の価格引き上げを認めるように政府も監視しています。
このように賃金や価格を押し上げる方向の政策が続いています。拡張的な財政政策が続いていることと合わせると、物価と賃金のスパイラル的上昇リスクも無視できない。ですので、物価上昇が落ち着くとはまだ言えない。もちろん先生がおっしゃった通り、過去30年と同じ状況に戻るリスクもありますが、スパイラル的な物価上昇リスクもあるとみています。
実質賃金を上げるには労働組合の
交渉の在り方を変えることが必要
――実質賃金が上昇し続ける状況をつくるにはどういった方策が有効ですか。
渡辺 日本でインフレについて責任を持つ機関は日本銀行です。では、この労働者の権利である賃金あるいは実質賃金については、責任を持つ機関はどこになるでしょう。役どころとしては、当然それは連合とか、あるいは個々の産業別の組合になるのでしょう。
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Photo by K.A.
そこの組織としての能力、リサーチ能力、データ収集力が、日銀などと同じレベルにはなっていない。それは別に連合が怠けていると言いたいわけではありません。社会のリソースの配分として、日本は間違ってきたのだと思っています。大きく言うと、やっぱり労働組合を強化する。連合のような組織に知見を与えてくれる仕組みを、別途作らなければいけないと思います。
私は、昨年の春先ぐらいから夏にかけて、連合に依頼されて実質賃金を上げる策を労働経済学が専門の東京大学の玄田有史教授などと一緒に検討し提案をしました。
実質賃金が上がらない理由は、やはり組合の要求の仕方というものに問題があるとみています。組合の方が、企業が苦しいのであれば賃上げなしでもいいですというような自粛をしてきてしまったことが、長期間の「賃上げなし」につながったとみています。
この3、4年は高めの賃上げを要求するようになってきましたが、要求の仕方は科学的ではありません。実質賃金が結果的には下がってしまっています。5%の賃上げを実現したといっても物価に追い付かず実質賃金が下がっています。賃上げの要求の仕方を変えていかなければいけない。
――河野さんは、どうお考えでしょうか。
河野 渡辺先生はずっとゼロインフレ・ノルム(社会規範)とおっしゃってきました。私は、ゼロインフレ・ノルムの正体は、実は実質ゼロベア・ノルムではと考えるようになりました。
企業経営者からすると、定期昇給を実施すればそれで賃上げは十分で、ベアは物価上昇の調整弁に使えばいいと考えている節があります。だから、実質ゼロベア・ノルムがもし真の問題なら、3%ベアでも問題が解決されていないかもしれない。
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河野龍太郎 著
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どういうことかというと、過去四半世紀はゼロインフレだったからゼロベアだった。だから実質賃金が上がらなかった。現在も、3%インフレの下で3%ベアだから実質ゼロベアで、実質賃金が上がらないという点では全く変わりません。
仮にこのままだと、2%インフレが、日銀の狙い通り定着しても、2%ベースアップのままなら、個々人ベースでは定昇分だけ正社員の実質賃金は上がるでしょうが、社会全体では見れば実質賃金が上がらない状態は変わらない。これが私の「実質ゼロベア・ノルム」論です。
時間当たりで見るならば、日本の生産性上昇率はドイツやフランスと同じか上です。だけど日本だけ全く実質賃金が上がっていません。欧州の国々は、株主が取ったリスク以上に収益が上がった場合、このレント(超過リターン)を株主と従業員がきちんと分け合っています。いわゆるレント・シェアリングですが、日本では、この慣行が失われています。
今のままだと、賃上げしても企業が同じ率か、それ以上のペースで価格を引き上げるので、結局、実質賃金は上がらないことになります。昨年秋ぐらいから組合の方に対して強調しているのは、賃上げの水準も大事ですが、賃上げの原資の在り方も大事だということです。レント・シェアリングを意識する必要があるということです。企業が上げた利益は株主と従業員が分け合うという社会慣行を整える必要があります。
ではどうすればいいか。企業統治改革ですが、これまで政府は逆のことをやってきました。株主利益の最大化が企業経営者の役割というロジックでコーポレートガバナンス改革を進めてきました。今では、経営者だけでなくて従業員にも、そういった考えがすっかり浸透しています。組合も同じだと思います。ですから、コーポレートガバナンスを見直す必要があります。
株主の利益だけでなく、従業員や取引先、地域社会、全てのステークホルダーの利益の増進が経営者の本来の役割です。そういった社会慣行を日本は復活させる必要があります。上場しているから、ステークホルダー重視の企業経営は難しいと言う企業経営者に対しては、そもそも上場している意味があるのか、問いたいですね。
というのも、近年、大企業はミッションやパーパスを掲げています。それらを遂行する従業員に報いることができないのなら、上場していることがミッションやパーパスと齟齬を来しているということではないでしょうか。
予想外のインフレを
翌年の春闘で取り戻す
――渡辺先生は実質賃金を上昇させるために労働組合の要求の仕方を変えていくべきだとおっしゃっていますが、どのように変えていくべきなのでしょうか。
渡辺 大きく分けて二つの提言をしています。
一つは、春闘で賃上げが確定した後、インフレが想定以上に加速した場合にその分を翌年の春闘で上乗せするという条項を労使で交わすというものです。
春闘は年1回です。春に交渉して、その段階では一定のインフレを想定して、そこで賃金を決めるわけですが、秋になってトランプ関税のような事態が起きてインフレが突然高まるということが当然あります。そこで実質賃金が下がるということが起きます。
その場合には、翌年の春闘で、昨年の秋に予想外のインフレが起きたわけだから、その分の給与を上げてくれということを労働者が言えるようにすべきだし、経営側もそれを受け入れるべきだと考えます。
昨年9月にこの提言をしました。年末に毎年、連合が春闘に向けた指針を、各労働者や組合に対して示します。昨年はその中で、しっかりと実質賃金のキャッチアップをやるべきだ、とりわけ中小企業はやるべきだということを言っていただきました。今年の春闘では多少そういうものが取り入れられている面が出ているかと思いますので、それがもっと広まるといいなと思います。
2点目は、人手不足を要求の基準に反映させることです。人手不足は明らかに賃上げの追い風にはなっています。人手不足ということは労働の供給が足りていないわけで、労働市場が不均衡になっているわけです。
だとすれば、本来あるべき実質賃金の水準はもっと高くていいはずです。私たちはそれを自然実質賃金などと呼んでいます。それは今の実質賃金よりも高いわけです。であれば、人手不足だから、余分に賃金を払うよう要求し、実質賃金を上げる交渉をしっかりとやるべきだということを提言しました。
それは、単に人手不足だから色を付けてくれなどという大ざっぱな話ではありません。人手不足を定量的に把握した上で望ましい実質賃金の水準を算出し、それを経営者に要求する。経営者もそれを吟味した上で、納得できるものは受け入れる。こういう人手不足下での労使交渉の新しい在り方を確立すべきだと思います。
統計的・科学的な根拠を持って交渉を進めることは明らかに実質賃金を上げる方向に作用すると思います。私は、このキャッチアップと人手不足分の要求への上乗せをしっかりやるだけでも、結構な成果が上がるんじゃないかとみています。
――この賃上げ交渉のやり方を河野さんはどうみますか。
河野 私も方向性は全く先生と一緒です。
生産性などから計算され得る自然実質賃金より現状の実質賃金が低過ぎるとおっしゃいましたが、私も全く同感です。私も「これほど労働需給が逼迫しているのに、なぜ実質賃金が上がらないのか」「上がらないのは適切に支払われているからでは」と言われるのですが、因果関係は恐らく逆だと考えています。
生産性に比べて、実質賃金が低く抑えられている結果、過大な労働需要が起きているというのが私の認識です。よく「働き方改革」の規制を緩和したら、労働供給が増えるから人手不足は解消するという方がいらっしゃいますが、むしろ自然実質賃金に比べて低過ぎる現在の実質賃金を上げることが、過大な労働需要を抑えて、労働需給を緩和させると思っています。
個々の企業の労働分配率の推移、個々の役職者の賃金の推移、それが生産性あるいは利益の増加に対応する形で上がっているかについての開示を上場企業に義務付ければ、企業を選ぶ学生の役にも立つでしょうし、恐らく従業員に報いている企業の方が株式市場でも評価されてくると思います。
現状ではいかに利益が上がっているかというボトムラインだけしか示されていないので、株式市場はその点しか注目しません。ただ、従業員に報いていないというのは、人的資本をおろそかにしている会社ということです。財務諸表上で明らかにするのも先生が指摘された問題解決につながるのではないでしょうか。
渡辺 企業にとって稼いだ利益をどう配分するかは非常に大事です。株主に対しては自社株買い、増配などさまざまなオプションがあります。企業は株主がどう反応するかを考えながら配分を考える。ですが、賃金については従業員の反応を見ながら配分を考えていない。
例えば多少、生産性が上がったときに賃金を抑制ぎみにしても黙っていてくれるんだと思っているから、真摯に生産性の変化に対応しようという気持ちにならないんですという経営者がいます。
確かにそれはそうだと思います。何らかの形でそれが開示されて、その企業の賃金・人事政策がみんなに評価されるというふうにならないと、企業にとっては、いいことをしようというインセンティブが働かない。
河野 社外取締役を兼務する経営学者と対談をしたのですが、全く同じことをおっしゃっていました。「河野さん、利益をどう配分するかを決める取締役会で、賃上げの話なんか出ていないよ」と言うのです。従業員への配分をフォーカルポイント(注視する点)にすべきでしょう。
供給ショック下の積極財政は
インフレ再加速のリスクを伴う
――高市政権の財政政策、日銀に対する姿勢は安定した物価上昇を続けていくという観点から見てどう評価しますか。
渡辺 昨年10月に高市政権が発足したときに、財政拡張してしまうとインフレになるのではとよく聞かれました。
ただ、そのときに私は、日本はまだまだ昔のノルムが完全には消えていない気がしていましたので、積極財政ぐらいのことで、需要が強過ぎてインフレになるということはあり得ないと思っていました。その当時は、積極財政で高いインフレになるといったことは心配しなくていいんじゃないですかというようなことを言っていました。
現在のように大きな供給ショックが起きている下での積極財政は、行き過ぎたインフレ、スパイラル的なインフレを起こすリスクがあります。であれば、昨年の秋の時点では積極財政が政権としても望ましいという考えを持っていたとしても、イラン紛争で事情が変わってきているわけですから、積極財政を推進することについて政権は再考すべきです。私はいったん積極財政の旗を下ろすべきだと強く思います。
――そのあたりは河野さん、いかがですか。
河野 基本的には同じです。経済がほぼ完全雇用にある中で拡張財政をやっても、恐らく物価が上がるばかりであって、実質GDPはそれほど増えないでしょう。22年10~12月期から25年10~12月期までで名目GDPは13%ぐらい増えたのですが、実質GDPはこの間、1%しか増えていません。
この頃から物価高対応として、歴代政権は拡張財政を続けているわけですが、実質GDPの増加には、ほとんど寄与していないことが分かります。よかれと思って物価高対策をやっても、逆に物価高を加速させるだけに終わっているわけです。困窮する家計への支援はとても大事ですが、財政政策はもっと的を絞る必要があるということです。
金融政策に関して過去3年間起こっているのは、円安インフレなどによって実質購買力が抑制され、家計部門が大きなダメージを被っているので、政府は消去法で、日銀の利上げを渋々と容認してきたことだと思います。
金利上昇は嫌だけど、円安はもっと嫌というのが、グローバルインフレ以降の歴代政権が考えてきたことでしょう。実際0.75%まで政策金利を引き上げましたが、金利上昇で困っている人は少なく、円安をどうにかしてくれという人が多そうです。
賃金も上がり、物価も上がる中で、実質金利は今も大きなマイナスの領域にあります。こんな状況で中東危機が起きました。景気への悪影響もあるし、物価上昇の悪影響もあり、判断は難しいわけですが、先行きが不確実だからといって、いつまでも日銀は金利を据え置き続けるわけにはいかないと思います。
財政との絡みで、財政は拡張的で金融は引き締めだと、整合性が取れないという見方があります。恐らくそうではなくて、物価高対策として、拡張財政をある程度続けるのであれば、それが生み出すインフレ圧力を一定程度オフセットするための利上げを、政権は容認するのではないかというのが私の見立てです。それも難しいとすると、大幅な円安のリスクが出てきます。
●全国主要大学の経済学者、経営学者および民間のエコノミストにアンケートを送付し、78人から回答を得た。
●2024年秋ごろから25年12月31日までの間に出版された経済書、経営書および関連書籍の中からベスト5を選定してもらい、1位10点、2位6点、3位3点、4位2点、5位1点を付与し、総合得点を集計した。
●今回は、調査期間切り替えのため、対象書籍の出版期間は1年以上となっている。
Key Visual by Kaoru Kurata



