Photo by Yoshihisa Wada特集『ベスト経済書2026』(全10回)の#4では、ベスト経済書2026のトップ2に選ばれた『物価を考える』の著者、渡辺努・東京大学名誉教授と、『日本経済の死角』の著者、河野龍太郎・BNPパリバ証券経済調査本部長兼チーフエコノミストが対談し、物価・賃金動向について考察する。中東危機による供給ショックは、日本の物価と賃金にどこまで波及するのか。渡辺氏は消費者の値上げ許容度低下に注目し、デフレ期の行動パターンへの逆戻りを警戒する。一方、河野氏は拡張財政と賃金・物価スパイラルのリスクを指摘する。加えて日本の実質賃金を上げる方策についても論じてもらった。(構成/ダイヤモンド編集部編集委員 竹田孝洋)
脱グローバル化が招く
供給ショックとインフレ圧力
――今後の物価・経済の見通しについて教えていただけますか。
渡辺努 長い目線で言うと、1980年代から2000年ぐらいまでは、冷戦が終わってグローバル化が進んだ時期でした。日本だけではなくてほかの国も賃金と物価が上がりにくくなりました。要は、安い賃金で働く人が中国などから多く出てきたので物価や賃金が上がりにくいという状態だったわけです。
2000年初めぐらいから「脱グローバル化」のフェーズに入ってきました。今回の戦争も含め、さまざまな戦争が起きるなどして供給が制約される事態になる。それがインフレを起こす、賃上げを起こすということがグローバルに起きています。
渡辺 努(わたなべ・つとむ)/1959年生まれ。東京大学経済学部卒業、ハーバード大学Ph.D.(経済学専攻)。日本銀行、一橋大学経済研究所教授、東京大学大学院経済学研究科教授等を歴任。現在ナウキャスト創業者・取締役、東京大学名誉教授。著書に『物価とは何か』(講談社選書メチエ)、『世界インフレの謎』(講談社現代新書)など。 Photo by Y.W.私は脱グローバル化の下で供給が制約される事態が起きてくるというのは、決して偶然ではないし、イラン紛争も、これが終われば全てが終わるというものではないと思っています。グローバルな政治の不安定性の下で、供給ショックが次々と起きてきて、それがインフレの種になっていくことが今後も起きると思います。
ロシアのウクライナ侵攻の後で、日本は22年の春からインフレ率が上昇しました。そして、23年の春闘から賃上げが進みました。ウクライナ侵攻があったことが、物価の上昇や賃金の上昇につながったと、私自身もそういう書き方をしています。
ですので、多くの方は、今回のイラン紛争でも同じことが起きると思っていると思います。今後、ウクライナ侵攻後のようにインフレが加速する、賃上げが加速することになると。それは大変だなと思われる方も多いと思いますが、私は本当にウクライナ侵攻後と同じことが起きるかは、慎重に考える必要があるとみています。
一言で言うと、私は、イラン紛争後は、インフレはそれほど加速しないと考えています。もちろん石油関連製品はもう既に値上がりしていますし、今後も上がり続けるでしょう。ですが、それがそれ以外の製品や商品に波及していくことにはならないのではないかと思っています。
理由は、消費者が値上げを嫌がる度合いというのがここにきて高まっているとみているからです。ウクライナ侵攻後はその度合いが低下していたのですが、ここ1年半の間、再び高まってきているのです。ですので、ウクライナ侵攻直後のように、消費者が少々の物価上昇はインフレでしようがないと諦めて、受容するんだという環境には、今はないんじゃないかと思っています。
なぜそうなのか。一つは、ウクライナ侵攻は22年ですから、新型コロナウイルスの流行直後でした。コロナ禍の下、家計に強制貯蓄が生じていました。それに加えて、コロナ禍への対応として大規模な財政支援が行われ、それも消費者の貯蓄を増やしました。そうした貯蓄を、22年のインフレ上昇時に使うことができたんだと思います。消費者は値上げを受け入れやすい環境であったといえます。
現在は、賃金と物価が上がってきたものの、賃金の上昇ペースは物価上昇と比べてウクライナ侵攻後は鈍かった。そのため、実質賃金はマイナスが続き、決して消費者の懐の状況がいいわけではありません。それが、需要曲線が再び屈折するような状況、つまり値上げを受け入れにくい状況を生んでしまっています。
ですから、今回、米国・イスラエルとイランの紛争が長期化し、原油高、ナフサの価格高騰が続いたとしても、それがほかの商品に次々と波及するというウクライナ侵攻後のような展開にはならないとみます。消費者が値上げを許容しないことを企業は見越して、価格転嫁を控えると思います。そうなると、労働組合も、大幅な賃上げとは言いにくくなり、賃上げ率も弱まるということになるのではないでしょうか。
物価上昇がそれほど加速しないという意味では、いい話ではあるかもしれませんが、なぜ加速しないかということを突き詰めると、消費者の家計が苦しく、値上げを許容できないからということになってしまうわけです。企業もコスト増を価格転嫁できず、収益が悪化します。消費者も企業もかなり苦しい状況に追い込まれそうです。これが私の現時点での認識です。
値上げを嫌がる消費者、それを把握した上で値上げを控える企業というまさにデフレ期の行動パターンがもう一回戻ってきてしまうことも十分にあり得るんじゃないかなと心配しています。
河野龍太郎(こうの・りゅうたろう)/1987年横浜国立大学経済学部卒業。住友銀行(現・三井住友銀行)、第一生命経済研究所(現・第一ライフ資産運用経済研究所)を経て、2000年BNPパリバ証券。23年より東京大学先端科学技術研究センター客員上級研究員、25年より同大学客員教授。主な著書に『成長の臨界 「飽和資本主義」はどこへ向かうのか』(慶應義塾大学出版会)。 Photo by Y.W.――河野さんの見解は。
河野龍太郎 私は渡辺先生とは少し見方が違います。
これまで起こったことの分析は、渡辺先生とほとんど同じですが、今後、物価がさほど加速しないで済むのかどうかは、まだ分からないというのが私の見方です。21~22年の世界的なインフレの加速は、コロナ禍で大規模な財政・金融緩和が繰り返され、同時に強制貯蓄が生じたことが背景にありました。
今回は21~22年と違う部分もあるけど、似ている部分もあります。まず、強制貯蓄はありません。また、21~22年にインフレは一時的だと判断し、利上げが遅れたFRB(米連邦準備制度理事会)やECB(欧州中央銀行)は、前回の反省があるので、インフレが上振れると今回は早めに利上げに踏み切るでしょう。
春闘で高い賃上げが実現してもインフレに追い付かず、実質賃金の伸びはマイナスが続いた。次ページでは、渡辺氏と河野氏に実質賃金を上げるための方策を聞いた。



