原発立地地域のフィールドワークで注目を集め、最新刊『漂白される社会』(ダイヤモンド社)では、売春島、ホームレスギャルといった「見て見ぬふり」をされる存在に迫り続ける社会学者・開沼博。そして、東日本大震災を機にそれまでの自分を捨て去り、「詩の礫」としてTwitterでありのままを紡ぎ始めた詩人・和合亮一。
対談第1回は、和合氏が詩を始めたきっかけから、震災で生じた詩人としての葛藤へと話は深まる(全3回)。
詩を始めるきっかけとなる2つの出会い
開沼 そもそも、和合さんが詩を始めたきっかけってどんなことだったんですか?なかなか、「よし、詩を書き始めよう」と思う瞬間を想像しにくくて。
和合 福島大学名誉教授の澤正宏先生との出会いから本格的に詩を書くようになりました。また、それとほとんど同じ時期、井上光晴という作家との出会いがありました。大学3年生のときに山形の文学伝習所で井上先生が講座を開いて、そこに参加したんですよ。2泊3日の合宿でした。そこでの彼の熱い語り口に衝撃を受け、「本物の作家とはこういう迫力がある人だなぁ」と思い、自分も何かを書く人間になりたいと思いました。
開沼 なるほど。大学時代の出会だったんですね。まったくの素人ながら、僕も詩を読んで衝撃を受けた経験があります。それは農民詩人の草野比佐男が書いた「村の女は眠れない」という詩です。
高度経済成長期、歴史の教科書を読んで理解しようとすれば、日本全体が華々しく進歩していっているような明るい「光」のイメージが強くなりがちですが、実際は、村の男は皆出稼ぎに行ってしまい、子も戻ってこず、お母さんとおばあさんだけが村にとり残されることになった。
「村の女は眠れない」では、そういった「光」の眩しさで見えなくなっている「闇」の部分を描き出そうしていました。『「フクシマ」論』(青土社)の中でも草野比佐男の詩をいくつか引用しています。
オフィシャルウェブサイト:http://wago2828.com/
Twitter:@wago2828
和合 草野比佐男はいわき市の詩人ですよね?
開沼 そうです。いわきの詩人です。
和合 僕もあの場面はすごく好きです。
開沼 本来、論文に詩を入れることは蛇足にすぎないのかもしれません。その詩がなかったとしても論文自体は成立します。ただ、「論文」という形式である以上、画像・映像を駆使するわけにもいかず、文章を使ってすべてを伝えなければならない。一方で、どんな論理を用いて説明しても、高度経済成長の裏側にある切実さや物悲しさは伝わりません。論理を超えた、情緒・情念の部分を伝えるために詩の表現が必要だと思っていました。
そういう経験を踏まえると、詩、あるいは広く文学には「論文」が持ち得ない力を持つ瞬間があって、そこをうまく捕らえられたものが「良い作品」となるのではないかと推察しています。そういった観点では、和合さんにとってどういう詩が良い詩なんでしょうか?
和合 井上先生が書いていたのは労働文学というか、あまりはっきりとは言葉にできませんが社会派の作家でした。彼の講座に参加して今でも覚えていることが2つあります。1つは、「物を書こうと思ったらベストセラー作家になろうと思うな。賞を取ったら堕落する。もし賞を受賞する機会があれば断りなさい」と。結局、僕は断りませんでしたが(笑)。
開沼 そういった意味では僕も堕落した部分があります(笑)。
和合 「ベストセラーと呼ばれる作品はくだらない。歴史に残るものが大事だ。歴史に残るために物を書くんだ」ということを仰っていました。なんでベストセラーはダメなのかはよくわかりませんでしたが、そこでガーンと衝撃を受けたんですよ。
開沼 一時的に市場で流通するか否かではなく、歴史に残り評価され得る作品か否かということこそが基準であると。
和合 もう1つは、「何よりも自分のために書け。誰かのために、読んでもらうために書くのではなく、自分のために書きなさい。書いて書いて自分を創造していくんだ」ということです。当時、僕は20歳でしたけど、そういうことをはっきりと仰っていたのは衝撃でしたね。
開沼 なるほど。言われてみれば、僕自身が研究に対して持っている感覚とも完全に一致します。
和合 僕はこれまで小説を書いたことはありませんが、その講座には小説を書こうと思って参加していました。これから小説を書いていくことはあるかもしれませんが、詩のほうが自分にはピッタリきたんです。
そこで、自分の詩を書いて井上先生に見せたんです。「僕のは詩になっていますか?」とありがちな質問をしましたよ。すると、「なってるよ」と簡単に言われて。先生がそのときにどういう気持ちで仰ったのかはわかりませんけど、「詩人やってもいいよ」と言われたと勘違いしてしまったんです(笑)。それから一所懸命に物を書くようになりました。
開沼 その想いをずっと持ち続けてきたんですね。
和合 自分の中で文学を追いかけたいと思っていました。あくまでも芸術としてやっていきたいという気持ちです。震災前までその気持ちがずっと続いていて、「わかる人がわかってくれればいい」という気持ちのほうが強かったですね。