アダム・スミス(1723―1790年)は、正式タイトルを『諸国民の富の性質と原因に関する研究』(An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations)といい、一般には『国富論』(The Wealth of Nations)として知られている彼の最も高名な著書を1776年に発表した。
この本は現代の最重要書物の1つとされることが多く、個人の自由に絶対的価値があるということと、自己利益の追求が最終的には社会全体の利益につながるということの2点が、この本の思想の要点である。
人生と業績
スミスはスコットランドのカーコールディで、未亡人の母親に育てられた。奨学金によって14歳でグラスゴー大学へ進学し数学と倫理学を学び、その後17歳でオックスフォード大学のベイリオルカレッジに進んだ。1748年にエディンバラ大学で論理学の公開講座を担当するようになり、1751年にはグラスゴー大学の論理学講座教授になった。翌年、道徳哲学講座の教授となり、神経障害を患って物言いが不明瞭で物忘れもひどかったものの、その講義は非常に評判が良かった。彼の講義は、神学、倫理学、法学が中心であった。
1763年に最初の著書『道徳感情論』(The Theory of Moral Sentiments)を発表した後、スミスは若きバックルー公爵のヨーロッパ「巡回旅行」に同行し、家庭教師兼話相手となるよう要請された。この旅を通じて彼はボルテールやルソーら数人の偉大な哲学者や思想家と出会い、彼自身の思想も確固たるものとなった。ヨーロッパ大陸から戻ったスミスは、『国富論』の執筆に専念するためカーコールディに引きこもることにした。
1778年にスミスはスコットランドの関税局長官に就任し、1787年にはグラスゴー大学の総長に選出された。スミスには先の2冊に続く3冊目の本(法学に関する内容)を刊行する計画があったが、彼が執筆したのは結局は『国富論』の改訂版だけだった。
スミスは生涯独身であり、その卓越した知性にもかかわらず、奇人として知られるようになっていた。それは多分に、寝間着から日中着に着替えるといった日常的なことを忘れてしまう傾向のせいであった。母親の死後スミスが1790年に亡くなるまで、未婚のおばが彼の面倒を見た。
●歴史的背景
スミスの思想を十分に理解するためには、彼のバックグラウンドを知っておいた方がよい。彼は当時最も影響力のあった思想家の多くと知り合いで、ロンドンの紳士クラブに通っては議論に花を咲かせていた。彼はジョン・ロックともデビッド・ヒュームとも親交があり、フランスの重農主義者の第一人者ケネーの弟子だった時期もあった。『国富論』がこれらの多くの人々からアイデアを得たことは間違いない。
17世紀の後半から18世紀にかけて、「自然法」の概念に対する関心が高まっていた。ニュートンの『プリンキピア(自然哲学の数学的原理)』(Philosophiae Naturalis Principia Mathematica、1687年)の発表以来、自然科学が学問分野として確立され、人間の諸活動の規範となると考えられた自然法を解き明かそうという気運が高まっていた。