参院選の自民党公認争奪戦
最有力なのに除外された中川の憤激
98年、八木町長だった中川は国政へ進出したくてうずうずしていた。年齢は46歳。気力体力共に充実していた。
集票力にも自信があった。町長として町単独の同和対策事業を全廃するなど実績を残していた(詳細は本連載#12『野中広務が「農協界のドン」に激怒した理由、同和問題改革者が利権の亡者に変心の裏切り』参照)上に、組合長として農協の経営再建を果たし、JAグループ京都会長やJAグループ全国組織の役員に就任。農協組織内の独裁化を進め、選挙に職員を動員する体制も整えていた。
参議院議員選挙の自民党公認候補選定の混乱のきっかけは、97年当時、自民党京都府支部連合会(自民党京都府連)会長だった谷垣禎一が、手上げ方式による「公募」という手法を初めて採用したことだった。これが思わぬ波乱を招くことになる。密室で公認候補を決めるより透明性が確保されるのは良かったが、「本命の実力者から記念受験のような泡沫候補まで次々と手を挙げ、収拾がつかなくなった」(自民党関係者)のだ。
おまけに、言い出しっぺの谷垣が途中で科学技術庁長官に就任し、公認候補の選定に責任を持つ自民党京都府連会長を野中に引き継ぐことになった。「野中が当初から仕切っていれば公募などしなかっただろう。野中は貧乏くじを引くことになった」(同)。
中川は当然のごとく公募に手を挙げていた。公認争いは熾烈を極めた。中川以外に5人の府議会議員や京都市議会議員が公募に応募し、公認候補の座を奪い合った。
野中がどんな裁定をするのか世間は注目した。
6人の応募者の中には、岸田文雄内閣で国家公安委員長を務めている現参議院議員、二之湯智(当時は京都市議会議員、野中広務後援会連合会事務局長)など有力者もいたのだが、知名度や集票力、資金力では中川に分があった。
しかし野中は、中川の北朝鮮での振る舞いなど(詳細は本連載#13『北朝鮮支援を「農協界のドン」が売名に利用した全内幕、野中広務の大誤算』参照)から、中川への警戒を解くことができなかった。
かといって、実績に劣る中川以外の5人から公認候補を選べば、中川が牙をむいてくることは必至だった。どの人物を選んでも党内にしこりが残り、挙党態勢を組めなくなる恐れがあった。
迷った末、野中が下した決断は、6人の応募者全員に降りてもらい、それまで名前すら挙がっていなかった府議会議長、山本直彦に白羽の矢を立てるというアクロバティックなものだった。
野中は公認候補を発表した記者会見で、「それぞれの支援団体を持つ6人の公認申請者から1人に絞れば、党員確保や資金集めを含めた選挙態勢への影響が出る危惧があった」と述べた。
選考プロセスの妥当性については、「(公募に応じた)6人から1人に絞るのは困難で、波風を立てない方向で努力した。6人からは府連に一任するとの合意を得て、府内で幅広い支持がある山本氏にお願いをした」と説明した。
しかし、いくら自民党の長老である野中であっても、さすがにこの裁定には無理があった。「波風を立てないどころか、消えない対立を生むことになった」(中川の支持者)。
野中が6人を除外し、一度進めた先行プロセスを白紙に戻したのは、最も有力だった中川を選ばないための奇策だった。それを自民党関係者は見透かしていた。
選に漏れた6人は、自民党京都府連幹部らの面接まで受けてアピールしていたが、そうした努力は水泡に帰した。中川は面接で、「用意できる選挙資金の額まで明らかにするなど本気で公認を取りにいっていた」(前出の自民党関係者)。
さらに人間関係をこじれさせたのは選挙の結果だった。参議院の京都選挙区は3年ごとに2人が改選されるが、2枠のうち1枠は56年(保守合同による自民党結成の翌年)以来、同党が確保していた指定席だった。98年の選挙も、「楽勝だろうと誰もが考えていた」(同)。
ところが、結果は惨敗だった。山本は、首位だった無所属の福山哲郎(現立憲民主党幹事長)に遠く及ばず、2位だった共産党の西山登紀子にも7万票近く差を付けられて落選したのだ。
自民党は大物参議院議員、林田悠紀夫引退直後の人材の端境期を突かれた格好だったが、本当の敗因は別にあった。端的に言えば、「公募の応募者6人とその支持者たちが選挙で山本を応援せず、“ふて寝”していたから」(中川の支援者)だった。応募者の個人名がメディアに取り沙汰されていたこともあり、結果的に、「野中によって恥をかかされた格好になっていた」(同)。
山本の落選というふがいない結果に、6人の中で最右翼だった中川が憤慨したのは想像に難くない。
「中川は『野中の跡目は俺が継ぐ』とあちこちで吹聴していた。野中から内々に承諾を得ているような言いぶりだった」(地元関係者)。それだけに、参議院議員選挙で露骨に排除されたことは腹に据えかねたようだ。ある野中の有力支援者は、「中川は野中に対する敵愾心を募らせていった。何度か会って話をしたが、われわれへの反感は収まらなかった」と話す。
中川の国政進出の前に立ちはだかった自民党京都府連の幹部ら。京都には野中の他、全国レベルの人材として伊吹文明(写真左。自民党幹事長、志帥会会長、衆議院議長)や谷垣禎一(同右。自民党総裁、幹事長、財相)がいた。両者にとって中川はやっかいな存在だったろうが、伊吹も谷垣も「『地元のことは地元でやってくれ』と突き放し、中央での仕事に集中するタイプ」(自民党関係者)だったため、中川と真っ向から対立することはなかった
もっとも、野中のように中川に不信感と警戒感を持っていた自民党京都府連関係者は少なくなかった。そのため、中川を公認候補にしないだけならば一定の理解を得られたかもしれない。
後々禍根を残したのは、参議院議員選挙の後、野中が衆議院議員選挙に2度も山本を擁立したことだった。山本は京都2区から自民党公認候補として立候補し、前原誠司(現国民民主党代表代行)に連敗した。
野中は、「『あいつ(山本)を国会議員にしないと、俺は死んでも死に切れん』と周囲に漏らしていた」(前出の自民党関係者)。
山本は地元の厄介事の調整に汗をかくタイプで、野中が好む昔かたぎの政治家だったことは確かだ。だが、野中が山本に執着した最大の理由は、“自責の念”だった。
実は、山本は府議会議長をしていた当時から衆議院議員として国政に打って出るつもりでいた。その山本を無理やり参議院議員選挙で担ぎ上げて落選させてしまったことを、野中は後ろめたく思っていたのだ。
2004年の参議院議員選挙の際、野中は自民党京都府連の大会で6年前の山本の惨敗を振り返り、「山本さんの政治活動に拭い難い汚点を付けてしまったのはこの私だ。万死に値すると思っている」と強い言葉で自己批判している。
野中の山本への「償い」はその家族にも及んだ。山本の息子を秘書として雇っていたのだ。野中が政界を引退する際は、その息子に再就職先を紹介するだけでなく、わざわざ面接に同行までしている。このエピソードは野中の義理堅さを物語るエピソードとして自民党関係者らの間で語られているが、なぜ野中が山本にそこまで執心したのか、筆者には理解し難い。
事実として、野中は山本に国政にチャレンジする機会を3度も与えた一方、中川には挑戦するチャンスをやらなかった。中川には到底、承服できないことだった。
知事選で10万票を集め
次のチャンスにつなげる
中川はついに野中に反旗を翻した。02年の京都府知事選挙に自民党の制止を振り切って出馬したのだ。告示直前に離党しての劇的な立候補だった。
自民党は支持層が分裂する厳しい選挙を強いられた。ただでさえ京都府は78年までの28年間、共産党など革新勢力と協調する蜷川虎三府政が続いた土地柄だ。自民党は府議会議員時代の野中の奮闘によって府知事のポストをようやく奪還したが、02年の府知事選では逆に共産党が府政を再奪還しようと燃えていた。
この油断できない選挙で中川は造反し、保守分裂を招いたのだ。
野中個人にとって、中川の立候補は泣き面に蜂だった。
知事選の直前に、官房長官の野中を官房副長官として支えた鈴木宗男が北方四島の人道支援を巡る疑惑で自民党を離党。鈴木の後見人だった野中にも批判が集まっていた。その上、野中の「子分」とみられていた中川の出馬を抑えられなかったことは、野中の威信に陰りが見えたことの象徴としてマスコミに書き立てられた。
つまり知事選は野中にとって絶対に負けられない大一番になった。野中は自らが事務総長を務めていた橋本派に支援を要請。同派幹部やその秘書ら数十人が大挙して京都入りし、選挙応援に投入された。
野中は選挙期間中、「政治生命を懸ける」と公言し、衆議院本会議や自民党総務会を欠席して地元で陣頭指揮を執った。石原慎太郎・東京都知事に電話をかけて応援演説を依頼するなど政界人脈もフル活用した。
そうした必死の選挙運動のかいあって、野中は何とか面目を保つことができた。自民党、民主党、公明党など主要6政党の推薦を受けた副知事の山田啓二が48万2158票を獲得して当選したのだ。共産党が推した弁護士の森川明は39万1638票にとどまった。
「神戸新聞」によれば、選挙当日、山田当選に沸く選挙事務所で、野中は「うっすらと涙を浮かべ『とにかくほっとした』と語った」という。
片や、中川である。この選挙で中川は9万9144票を集めた。「京都新聞」が選挙後に掲載した記者座談会で、「中川氏は『15万票はいく』としていたから物足りない票だろう」と総括されているので、目標とした得票数には届かなかったようだ。
しかし、中川にとってこの選挙は国政進出に向けた一里塚となった。農協の基礎票が底堅いことを示せただけではなく、JA京都中央会の職員らが選挙の司令塔としての経験値を積みレベルアップしたことが大きな成果だった。
一方の野中は知事選には勝ったものの、その翌年には小泉純一郎の自民党総裁再選を阻止しようとして失敗。政界引退を余儀なくされた。その後も構造改革を掲げる小泉に苦言を呈し続けたが、変化を求める時代の潮流にはあらがえなかった。
そしてついに05年の郵政選挙で、自らの牙城である京都4区に攻め入られることになる。相手は、自民党総裁の小泉純一郎から刺客として送り込まれた中川だった。(敬称略)



