農協の大悪党#12・泰宏農場で飼われている乳牛Photo by Hirobumi Senbongi

農協界のドンで、元小泉チルドレンでもある中川泰宏が政治家として最も輝いたのは八木町長時代だ。中川は利権の温床となっていた町の同和対策事業を全廃したのだ。同和団体が町役場に押し掛けるといった抵抗にひるまず利権に切り込んだ。衆議院議員だった野中広務もそれを応援した。しかし、中川のある「裏切り行為」によって2人は反目していく。連載『農協の大悪党 野中広務を倒した男』の#12では、町長時代の中川と、野中との関係に迫った。(ダイヤモンド編集部 千本木啓文)

被差別部落ではない牧場の拡張で
3.3億円の同和対策補助金を受給

 1992年に八木町長に就任した中川は、同和対策事業の利権と戦う改革派首長として活躍した。

「私の武器はこの足だ。引きずって歩く不自由な足は私の名刺であると同時に武器でもある。福祉や同和問題で対立するとき、『差別だ』『障害を馬鹿にしている』などと主張する人は私の足を見てたじろぐ。『差別や障害の痛み、悲しみは私が身にしみて分かっている。その切なさを解決するためにはどうすればよいか話し合おう』。これが私の殺し文句だ」

 中川が町長時代に書き下ろした著書『弱みを強みに生きてきた この足が私の名刺』にあるこの言葉は、中川という人物を象徴すると同時に、中川が同和団体の利権に切り込むことができた理由を端的に表している。

 同和利権問題に詳しいジャーナリストの寺園敦史が革新系月刊誌「ねっとわーく京都2007年11月号」に寄稿した記事によれば、中川が町長就任後に早速同和利権にメスを入れると、町役場に数百人の部落解放同盟員が押し掛けるという騒動が起きた。中川は職員らの最前線に立って同盟員らと対峙し、追い返してみせたという。

 中川自身が暴漢に襲われ、足をハンマーで強打され入院したこともあった。暴漢が同和団体関係者だったかどうかは不明だが、同和行政を見直そうとした時期に起きた暴行事件が、中川へのプレッシャーになったことは事実だろう。中川はそうした圧力にひるまず就任から5年後に町独自の同和対策事業を全廃した。