「長崎ちゃんめん」で
1号店スタート

 目を付けたのは長崎の郷土料理である「ちゃんぽん」だった。74年に1号店を「長崎ちゃんめん」という名称でオープン。独自に開発したスープや当時まだ珍しかったオープンキッチン、さらにマイカーの需要を見越したロードサイド店が好評で、長崎県下に11店舗を展開した。76年には創業者である長兄を病気で亡くすが、次兄・鉦二(しょうじ)氏(最高顧問)とのツートップ体制で乗り越え、翌年には福岡エリア1号店を開業、店名を「リンガーハット」と改めた。

長崎ちゃんぽんで強固なブランドを確立。60周年を迎えた老舗チェーンの挑戦「おいしさ」と「品質向上」を両立し、国産野菜100%で挑んだ「野菜たっぷりちゃんぽん」が大ヒット

 首都圏進出は79年だったが、当初は苦労の連続だった。「首都圏では長崎ちゃんぽんになじみがなく、白いスープを見たお客さまから『牛乳が入っているのか?』と言われたほど。知名度や信用力もなかったので、1号店(大宮バイパス与野店)は土地を借りることができず、土地を購入しての出店でした。結局、首都圏全体で利益が出るレベルに達するまでに20年近くの歳月を要したのですが、長崎ちゃんぽん本来のおいしさを伝えたい一心で出店を続けたのです」(米濵名誉会長)。

 創業時から品質にこだわってきたリンガーハットは、国内の外食産業の中でも先駆けてセントラルキッチン(CK)を整備したことでも知られる。83年に佐賀工場、88年には富士小山工場を新設し、全国の店舗網に新鮮で高品質な食材を供給するシステムを構築した。85年にはリンガーハットの100号店が開業、福岡証券取引所に上場して名実共に日本を代表する外食企業に成長、90年には米国にも出店を果たした。

 だが80年代後半、リンガーハットもバブル崩壊の大波をかぶる。米国への進出事業も撤退となった。

 そこで経営の立て直しのために取った方策が、NPS(ニュー・プロダクション・システム)研究会への入会だった。高効率で知られるトヨタの生産方式を経営の思想と捉え、異業種の会員企業がこれを学びながら実践していく研究会である。NPSの導入は、結果的にリンガーハットにとって単なる経営改善にとどまらず、チェーンとして新しい飛躍を遂げる、高次の生産性を獲得するための取り組みになった。

 柱となる思想は、ジャスト・イン・タイム、「必要なものを必要なときに必要なだけ作る」というものである。営業・生産体制・配送などのシステムを徹底的に見直して全体最適を追求。その結果、約5億円分あった在庫が約2億円分に減少した。さらに「必要なものは自分たちで全部作る」という思想もあり、徹底した内製化を進めた。それまで食品加工メーカーに依頼していた肉のカット作業や、チャーハンやはんぺんの製造ライン、蒸し麺や揚げ麺などを内製化、スライサーなどの機械類も自分たちで製造。内製化率を約80%まで向上させたことで原価を大幅に下げることができた。