「そこで道元禅師が学んだのは、私たちが持つ“見聞(けんもん)覚知”の働きは素晴らしく、この働きの他に、何か特別な仏を求めることは正しくない、ということでした。しかしその働きは、私たちを凡夫(煩悩)にもします。道元禅師は、私たちの身心を凡夫としてではなく、仏として用いることの重要性を悟り、それこそが仏道であると確信したのです」
道元禅師はそのために、欲望(五欲※)をコントロールし、坐禅や食事、洗面・洗浄や礼拝などの威儀作法を重んじた。仏のまねをすることで、仏性に近づこうとする試みだ。
仏教には「出家」というものがあり、これは俗から聖への解脱と理解されている。角田教授によれば、出家とは有為(うい)(迷いの世界)から無為(平安の世界)への移行だという。
世の中の多くの行為は、結果を期待して行う。例えば、昇給のために一生懸命働く。この「ため」というのが有為であり、有為の世界には強い自意識(エゴ)が働く。自と他を対立させ、比較し、競争し、そこに優劣を決めて、より高い地位や名誉を願い、より多くの財産を求める。
「それが悪いわけではありませんが、満足感はなかなか得られず、かえって多くの苦悩が伴います。苦しみは、思い通りにしたい人生と、現実とのギャップから生まれます。地位、名誉、財産など、成果を求める“有為”の生き方から離れて、“無為”に生きるのが、すなわち出家の在り方なのです。故に出家における仏道は、悟り(果)を求めて修行(因)を行いません。それを追い求めることは“有為”の世界の在り方なのです。悟りを求めず、ただ修行するのが“無為”であり、だからこそ道元禅師は、坐禅において悟りを求めない“只管打坐(しかんたざ)(余念を交えず、ただひたすら坐禅すること)”を強調するのです」
執着しない断捨離と
坐禅で“心の出家”を
では、実際に寺院で修行をすることのない一般の人々は、どのように“心の出家”をして“平安の世界”に行けば良いのか。角田教授は、その一つの方法が断捨離だという。
「もちろん、現実的にお金がなければ生きていけませんが、最低限のものを確保して、地位や名誉、財産に執着せずに、欲望から離れていく。持っているものを奪われまいとすればするほど、非常につらくなります。“無為”に近づけば、そこに安らぎがあるのです」