1990年代以降の低迷は
投資抑制メカニズムにあり
近代日本で松永や出光のような企業家が果たした役割は大きい。一方で、長い時間軸で経済発展と停滞の構造をとらえる視座も重要だ。橘川氏は2つの疑問を提起する。
「1910年代から1980年代まで、戦争期を除いて、日本は主要国中最高の経済成長を維持しました。第1の疑問は、その要因は何かということ。第2の疑問は、その日本経済が90年代以降、長きにわたって停滞し続けているのはなぜかということです」
2つの疑問を解くうえで、橘川氏は3つのイノベーション概念を説く。
「1910年代から80年代は、改善中心のインクリメンタルイノベーションの時代でした。ところが、1990年代以降、日本企業はラディカルイノベーションとディスラプティブイノベーションに挟撃されています」
ラディカルイノベーションの代表例は、馬車の時代に登場した自動車だ。ディスラプティブイノベーションは、1990年代以降にコンピュータ業界で起きた、高価・高性能の汎用機からUNIXサーバー、PCサーバーへのシフトがその好例だ。後発の技術は安価だが、品質が顧客の要求水準に届かない。しかし、ある時点で水準を満たすと一気に普及する。
「1980年代までの日本の高成長は、インクリメンタルイノベーションによって達成されました。後発者が改善を繰り返して競争優位に立つというパターンで日本企業は成長したのです」と橘川氏。しかし、90年代以降は2つのイノベーションの挟撃を受ける。橘川氏はこう続ける。
「ラディカルイノベーションは先行者優位で、勝者総取りのケースが多い。ディスラプティブイノベーションではコストパフォーマンスに優れた後発者にチャンスがありますが、この位置を確保したのは、中国や韓国、台湾などの企業でした」
1990年代以降の低迷は、投資抑制メカニズムでも説明できるという。
「90年代に経済成長した米国の企業は、積極的な投資で資産と自己資本を増やしつつ、それ以上のスピードで利益を拡大し、ROA(総資産利益率)とROE(自己資本利益率)を高めました。同時期に日本企業は同じ目標に向けて異なる手段を選びました。分子(利益)を増やすのではなく、分母(資産、自己資本)を減らしたのです」と橘川氏。
もちろん、例外的な経営者はいる。そうした人たちを、橘川氏はリスクテイカーと呼び、稲盛和夫、鈴木敏文、柳井正、孫正義らを挙げる。彼らに匹敵しうる企業家が、今後登場するのか。日本の産業界にとって大きな課題だ。