重要な政治決定の裏側には、スパイが絡んでいる。かつての国際的な危機や紛争、国家元首の動きもすべてお見通しだった。それは単なる偶然ではない。政治指導者の力でもない。さまざまな情報を分析したスパイたちのおかげだった。イギリスの“スパイの親玉”だったともいえる人物が、『イギリス諜報機関の元スパイが教える 最強の知的武装術 ――残酷な時代を乗り切る10のレッスン』を著した。スパイがどのように情報を収集し、分析し、活用しているのか? そのテクニックをかつての実例を深堀りしながら「10のレッスン」として解説している。マネジメントを含めた大所高所の視点を持ち合わせている点も魅力だ。本書から、その一部を特別公開する。

【イギリスの元スパイが説く】<br />ロシアは、ウクライナの領土保全の侵害を<br />プロパガンダによって正当化しているPhoto: Adobe Stock

欺瞞と偽情報の意図的な利用

第1次世界大戦の「ツィンメルマンの電報」や、第2次世界大戦のイギリスの二重スパイのような生き残りのための欺瞞は、軍事行動の一端だと考えられる。平時には、民主主義国家は国民に嘘をつかないことが最善であり、情報がグローバル化した現在では虚偽を避けるのが最も良い。

ところがロシアの諜報機関は、平時においても、情報が国民と西側諸国に対する政略上の兵器になることを早くから学んだ。そして、情報工作を「秘密の手段と方法を用いて、対象者の秘密情報を入手し、敵対者に影響をおよぼし、その政治的・経済的・科学的・技術的および軍事的地位を弱めるよう積極的な策を講じる秘密の政治闘争」だとしている。

独裁主義のロシア政府にとって、「主な敵」であるアメリカとイギリスについて偽情報を流すのも積極的な策の1つだ。

エイズが広まったとき、ソ連国家保安委員会(KGB)はアメリカ軍による生物兵器実験が原因だという話をでっちあげて、流布した。アメリカは1975年発効の生物兵器禁止条約に署名する以前は生物兵器の研究を行っていたし(アメリカもそれを認めている)、対生物剤に関する研究は続けている。キューバの最高指導者フィデル・カストロ暗殺未遂事件など、1970年代に米中央情報局(CIA)が行った秘密工作を考え合わせると、アメリカに反発する者にとっては、もっともらしく聞こえたことだろう。

ソ連がアフリカやそのほかの開発途上国でこの話を広めたのには、おそらく二重の動機があった。ソ連の諜報機関は、反米感情に火をつけて、アメリカ軍に対する不信感を植えつけたかった。また、ソ連が当時進めていた生物兵器製造計画(現在では詳細な報告書がある)が明らかになって、国際的な非難の的になったとき、アメリカのせいにできるようにしたかったのだろう。

ソ連崩壊後に誕生したロシアは、積極的に情報収集活動をしてきた。諜報機関・外交機関・国の統制下にあるメディアが、嘘の話をSNSを使って拡散している。エイズの話をでっちあげたときのように、COVID-19はアメリカの生物研究所でつくられたものだと主張した。

また、クリミアの不法な併合、ウクライナの領土保全の侵害、マレーシア航空17便撃墜、ウクライナを標的とした度重なるサイバー攻撃、旧ユーゴスラビアの小国モンテネグロのクーデター工作、西側の選挙の妨害などをプロパガンダによって正当化している。プロパガンダはどれも敵対的だ。

デビッド・オマンド(David Omand)
英ケンブリッジ大学を卒業後、国内外の情報収集・暗号解読を担う諜報機関であるイギリスの政府通信本部(GCHQ)に勤務、国防省を経て、GCHQ長官、内務省事務次官を務める。内閣府では事務次官や首相に助言する初代内閣安全保障・情報調整官(日本の内閣危機管理監に相当)、情報機関を監督する合同情報委員会(JIC)の委員・議長の要職を歴任したスパイマスター。『イギリス諜報機関の元スパイが教える 最強の知的武装術 ――残酷な時代を乗り切る10のレッスン』を刊行。