重要な政治決定の裏側には、スパイが絡んでいる。かつての国際的な危機や紛争、国家元首の動きもすべてお見通しだった。それは単なる偶然ではない。政治指導者の力でもない。さまざまな情報を分析したスパイたちのおかげだった。イギリスの“スパイの親玉”だったともいえる人物が、『イギリス諜報機関の元スパイが教える 最強の知的武装術 ――残酷な時代を乗り切る10のレッスン』を著した。スパイがどのように情報を収集し、分析し、活用しているのか? そのテクニックをかつての実例を深堀りしながら「10のレッスン」として解説している。マネジメントを含めた大所高所の視点を持ち合わせている点も魅力だ。本書から、その一部を特別公開する。
現実の予測には限界が内在している
アメリカのSF作家アイザック・アシモフの著作『ファウンデーション対帝国 銀河帝国興亡史2』では、架空の学問である「心理歴史学」という経験科学が、文明の興亡を社会学・歴史学・数理統計学を用いて宇宙規模でモデル化されている。
統計力学では気体中の個々の分子の動きは(量子効果の影響を受けるために)予測ができないものの、分子群全体の動きは予測できる。これと同じように、アシモフは、歴史の大きな流れを推測できると設定している。心理歴史学の生みの親とされる作中人物のハリ・セルダン博士によると、行動がモデル化される母集団は十分な規模があると同時に、心理歴史学的分析の結果が知らされていないことが重要な前提になる。母集団が結果を強く意識すれば、行動を変えるからだ。
このほかにも「人間社会に根本的な変化がない」「人間の本質と刺激への反応が変わらない」という前提もある。よって、アシモフは、銀河系規模での危機の到来は予測することができ、最も必要とされるときに開くようにプログラムされた「時間霊廟」を建設して、(セルダン博士のホログラムによって)助言を与えられるとした。
心理歴史学は、SF小説の作中だけの架空の学問のままになるだろう。おそらくそれでいいと思う。こうした発想には、初期条件を十分に示すことができないという大きな問題がある。天気の決定論的予報も、1週間ほど過ぎると、予報と観測の乖離が大きくなりすぎて役に立たなくなる。また、複雑系ではモデルが非線形であることが多く、小さな変化がすぐに大きな変化に変わる。
現実の予想には、限界が内在しているのだ。大きな流れの予想はできるかもしれないが、詳細についてはできない。ごく小さな乱れ(チョウの羽ばたきとしてよく語られる)からさまざまな事象が積み重なって増幅され、気象が大きく変化して、地球の反対側でハリケーンが発生する。国際情勢の予想は、検証の基準が細かくなるほど、考慮すべき変数、不可測要素や仮定が増え、長期予想の精度が低下する。
物理現象のレベルでも、すべての活動がモデルに従うわけではない。原子核の放射性崩壊が一定期間内に何度起こるかは発生確率によって知ることができるが、それが実際にいつになるかは予想ができない。光の粒子や電子が狭い一対のスリット(隙間)を通過するときの正確な経路も、確率によってしか事前には予想できない(量子物理学の重要な原理を実証する有名な二重スリット実験)。