でも今は当事者ではない。

 当事者には当事者の感覚があるし、非当事者には非当事者の感覚や役割がある。もしもあなたの友人が、「身内をアメリカ兵に殺されたイラク人の気持ちを想うとアメリカが憎くて仕方がないので報復してやる」と言ったなら、あなたはきっと呆気にとられながら、「だけど現実におまえはイラク人でもないし家族をアメリカ兵に殺されてもいないじゃないか」と止めるはずだ。非当事者である日本人にできることは、イラク国民の応報感情にすっぽりと同調することではなく、復興支援とかアメリカへの提言とか、他に幾らでもあるはずだと説得するはずだ。

 あるいはあなたの友人が、「自分が牛であることを考えたらあまりに辛くて可哀想だから牛肉を食べない」と宣言したとしたら、あなたはどう思うだろうか。喩えが少し極端であるかもしれない。でも本質は変わらないはずだ。あなたは牛ではない。ならば論理や感覚は牛とは違う。これも当たり前だ。もしも自分が牛だとしたらと考えて、そのように行動する必要も意味もない。

 もちろん牛の立場や心情を想像することは無意味ではない。同様に被害者遺族の気持ちを想うことは大切だ。実際にこの国の被害者遺族は、これまであまりにも冷遇視されてきた。オウム事件以降は急激に変わったけれど、救済や補償はもっと整備されるべきだ。遺族もそうでない人たちも、これではあまりに不合理で不正義で冷淡すぎると声をあげるべきだ。

気持ちを想うことと
憎悪を共有することは同じではない

 でもあなたは被害者遺族ではない。気持ちを想うことと、恨みや憎悪を共有することは同じではない。想うことと一体化することは違うし、そもそも一体化などできない。被害者遺族の抱く深い悲しみや寂寥(ルビ=せきりょう)、守ってやれなかったと自分を責める罪の意識や底知れない虚無、これを非当事者がリアルに共有することなどできない。

 一体化したかのような錯覚に陥っているだけだ。それも表層的な恨みや憎悪などの応報感情を。だから軽い。ぺらぺらと油紙のように燃えやすい。例えば以下の書き込みのように。

「どーしても死刑を廃止したいならそれでもいいだろう。しかし死刑相当の罪を犯した者は、四肢を切断し、耳をそぎ落とし、目をくり貫く。その位の事をするならば、死刑廃止に賛成してやるよww」