「平均値」では測れない大学全入時代の教育

 前回指摘したように、日本の教育はまさに優秀な工場モデルである。不良品率を下げ、一律一斉に規律正しくラインを維持するといったより良い工場のあり方を教育でも追求してきた。その結果、平均値は高くなるものの、突出して優秀な人材は生まれない。

 残念ながら、工場ではヒトではなくロボットが働く時代だ。そつなく言われたことを従順に間違いなく確実に遂行する平均的なヒトの仕事は、すでにロボットに置き換わっている。だからこそ、いま、教育の質的な転換、「教えるから学ぶ」「受動的学習から能動的学習」「学習者主体」が求められているのである。

 そもそも、全国学力調査の結果を都道府県別「平均点」で示している段階で、文部科学省のセンスの悪さを感じる。この「平均点」は何を語っているのか。平均値は相対値であり、母集団がどうなっているかでそれは変わる。だから、全国の児童生徒の学力が、全体としてどのようになっているのかが全く分からない。せめて最高点、最低点、学力分布を簡易に示す「箱ひげ図」で結果を公開してもらいたいところだ。

 学生にデータサイエンスを学ばせるよう大学に指示するのであれば、文科省ももう少しデータの出し方を工夫してほしい。特に、これまでの連載でも触れてきたように、大学入試が緩和される時代に「平均点」「偏差値」「順位」などの“相対値”を追いかけていても全体の母集団の変化は把握できず、“相対値”による競争がなくなれば意味がない面も顕著になってくる。そうした“相対値”ではなく、「理解度」や「到達度」などの“絶対値”に目を向けた政策が望まれる。

 改めて目を中等教育の中学・高校に転じてみよう。中学受験を志す家庭にとって、トップ層を伸ばせるような中高はどこか、は関心事だろう。採用抑制もあり、少子化時代とは教員不足の時代でもある。産休の代替要員はいないし、労働環境の過酷さも知れ渡り、実力不足の教員でも採用せざるを得ない。小学校も同様な状況にある。
 
 この実力不足の教員が、過積載気味の学習指導要領をこなすため、児童生徒を「暗記」に走らせていないかも気になるところだ。これからの学校選びで、授業中に「ここは覚えておけ」と指示したり、手順書通りに作業をするような指導に注力する教員を授業見学で目にしたら、積極的にその学校は外すべきだろう。間違っても「覚えることが学ぶこと」だというような授業をする学校を選ばないようにしたい。

 保護者や児童・生徒からすれば、教員により良い授業を求める傾向は強い。義務教育の小学校や中学校では、児童の学力は偏在しているのでさらに大変で、すでに「公教育の危機」ともいえる状況下にある。公立・私立を問わず、教員確保ができない学校はこれから増えていくだろう。より良い教育機会を求めて、国立や私立の小学校を目指すお受験や、中高一貫校を志向する中学受験の勢いは、今後も衰えることはない。

 同様に、高等教育である大学でも、教員の確保で問題が生じてくるだろう。社会人からの転用が比較的容易な実務家教員はともかく、その養成に時間がかかるにもかかわらず、ポスト不足でリスクも高い人文科学系や自然科学系の基礎研究の教員の補充は深刻だ。

 少子化の中で、優秀な人材は引く手あまたである。早稲田大法科大学院を修了した学生の中には、「医者であり、弁護士であり、大学教授」として活躍する者もいる。少子高齢化の中で財政力が衰えていく日本では、人文系の教育力を支えていくような“ぜいたく”が許されなくなっていくのかもしれない。そうであっても、基礎的学問分野にこそ、国家的な補助とそれに応える研究を期待したい。