「アメリカが第二次世界大戦に参戦したのは、1941年12月の真珠湾攻撃から」。そう覚えている人は多いだろう。だが、米兵が戦場に立つ前から、実はアメリカ製の戦車や航空機、燃料は海を渡り、イギリスなどの戦いを支えていた。国内には参戦を嫌う声が強かったのに、なぜルーズベルト大統領は大量の武器を送り続けたのか。「中立」と「参戦」の間にあった知られざる実態とは。書籍『地図で学ぶ「深読み」世界史』の著者が、武器貸与法と大西洋での動きを手がかりに、真珠湾攻撃へ至るアメリカの「戦争への近づき方」をわかりやすく読み解く。
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「参戦前なのに武器を大量供給」アメリカの“中立”の実態
アメリカが第二次世界大戦へ正式に参戦したのは、1941年12月の真珠湾攻撃の後である。だが、それ以前のアメリカを「完全な中立国」と考えると、実態を見誤る。
その象徴が、1941年に成立したレンドリース法、いわゆる武器貸与法である。これによってアメリカは、イギリスを中心に、後にはソ連などにも大量の武器や軍需物資を提供するようになった。
航空機、戦車、トラック、食料、燃料、通信機器など、供給されたものは多岐にわたる。アメリカ兵が直接戦場で戦っていなくても、アメリカの工場で作られた物資が連合国側の戦争を支えていたのである。
なぜルーズベルトは「戦わずに武器を渡す」道を選んだのか
なぜそんな中途半端な状態になったのか。当時のアメリカ国内には、第一次世界大戦の経験から「外国の戦争には巻き込まれたくない」という意識が強かった。一方、ルーズベルトはナチス・ドイツがヨーロッパを支配する事態を非常に危険視していた。
そこで、「自分たちはまだ戦わない。しかし、戦っている国には武器を渡す」という方法を取ったのである。ルーズベルトはアメリカを「民主主義の兵器廠」と位置づけた。
この政策は、国内世論と国際情勢の折衷案だったとも言える。いきなり兵士を送れば反発される。しかし、イギリスがドイツに敗れればアメリカの安全保障にも影響する。そこで段階的に関与を深めていった。
真珠湾攻撃は「突然の参戦」ではなかった
さらに大西洋では、アメリカ海軍が船団護衛などに関与し、ドイツ潜水艦との緊張も強まっていた。正式な宣戦布告こそしていなくても、戦争との境界は次第に曖昧になっていたのである。
だから1941年12月の参戦は、ゼロから百への突然の変化ではない。経済支援、軍需支援、海上活動と、アメリカはすでに何段階も戦争へ近づいていた。真珠湾攻撃は、その最後の一線を越えさせた出来事だったと見ることができる。









