【大人の教養】「三大聖地ってどこ?」エルサレム、ローマ、あと1つは?
「地図を読み解き、歴史を深読みしよう」
本連載では、海峡・山脈・河川などの地形を手がかりに、世界史を読み直していく。著者は代々木ゼミナールの世界史講師で、「地図の鬼」と呼ばれる伊藤敏氏。オリジナル地図を通じて、ホルムズ海峡やシルクロードなどの歴史的背景を立体的に理解でき、歴史と地理を同時に味わうことができる。本稿は、伊藤氏の近刊『地図で学ぶ「深読み」世界史』を一部抜粋したものだ。
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【大人の教養】「三大聖地ってどこ?」エルサレム、ローマ、あと1つは?
本日は「十字軍」についてお話しします。十字軍と言えば、中世ヨーロッパにおいてカトリック諸国が聖地エルサレムを奪回する一連の運動と説明されることが多いです。もちろん、この説明はまったくもって正しいのですが、とはいえ中世における「十字軍」という言葉は、実際にはより広い意味を持つものです。
十字軍は、カトリックの布教活動でもあった
そもそも、中世のカトリック教会において十字軍は「異教徒との戦い」と定義されました。このため、11世紀末に始まった十字軍遠征は、早くも12世紀半ばより聖地に限らず広範な異教徒との戦闘に適用されるようになり、これにより十字軍は中世ひいてはヨーロッパという文化圏に転換をもたらします。この「異教徒との戦い」として十字軍を定義したのが、12世紀最大の神学者であったクレールヴォーのベルナルドゥス(聖(サン)ベルナール/1090頃~1153)でした。ベルナルドゥスは十字軍への勧誘や、異教徒への暴力行使を神学的に理論化を試みます。その過程で、「入るように強制せよ」という聖書に由来する言葉を裏付けとし、教会の敵に対して致命的な武力を行使することを正当化したのです。
こうして12世紀より「異教徒との戦い」と定義された十字軍は、同時に改宗によるカトリックの布教という使命を帯びるようになりました。中世における「ヨーロッパ文化圏」は「ローマ・カトリック圏」に相当すると考えることができますが、十字軍は武力行使と改宗により、ヨーロッパ文化圏に外へと向かう時代をもたらすことになります。そしてこれ以降、ヨーロッパ文化圏の在り方は決定的なものとなったのです。
11世紀の巡礼熱と三大聖地
そもそも、中世の当時で「十字軍」はperegrinatioと呼ばれ、これはラテン語で「巡礼」を意味する言葉です。11世紀を迎えると、西ヨーロッパでは巡礼が人々の間で加熱し、これにより各地の聖地に大勢の巡礼者が訪れるようになります。
とりわけこの時期に人気のあった巡礼地は、教皇庁の所在地ローマ、イベリア半島のサンティアゴ・デ・コンポステラ、そして聖地エルサレムの3つでした。
1096年に始まる第1回十字軍は、こうした巡礼活動の延長線上にあるものと捉えることもできます。下図を見てください。
出典:地図で学ぶ「深読み」世界史
なぜサンティアゴ・デ・コンポステラが注目されたのか?
このうち11世紀よりにわかに注目が高まったのが、サンティアゴ・デ・コンポステラでした。「サンティアゴ」とはイエスの使徒であった聖ヤコブ(大ヤコブ/?~44)のスペイン語読みです。ヤコブは『新約聖書』ではパレスティナで殉教したことになっていますが、いつしか死後に彼の弟子たちがヤコブの遺体をはるか遠く離れたイベリア半島にまで運び、この地に墓を建てたという伝説が語られるようになります。
9世紀にそのヤコブの墓がサンティアゴ・デ・コンポステラで「奇跡的に発見」され、これによりこの地に巡礼者が訪れるようになります。ヤコブの墓が発見された9世紀は、後半期になると第2次民族大移動と呼ばれる諸勢力(ヴァイキング、マジャル人、イスラーム勢力など)がヨーロッパに相次いで侵攻し、これにより遠距離にあるエルサレムや、イスラーム勢力の断続的な襲撃に遭っていたローマは安全な巡礼が困難となります。このため、サンティアゴ・デ・コンポステラの巡礼地としての地位が相対的に高まることとなったのです。
(本原稿は『地図で学ぶ「深読み」世界史』を一部抜粋したものです)









