フィル・ナイト(1938~)は、オレゴン大学時代に将来を嘱望されたランナーだった。スポーツの素質を、そのままビジネスの世界に活かして成功をおさめた。
ナイトがビジネスとして選んだ製品は自らの競技種目にふさわしく、スポーツ用のシューズだった。パートナーであると同時に選手のコーチであったビル・バウワーマンと協力して、スポーツシューズに革命をもたらし、ありきたりの運動用具からハイテク製品へと変身させた。
マーケティングに対する天才的な閃きから、ナイトはそのブランドの名前を、ギリシャの勝利の女神にちなんでナイキとした。1971年のことだ。そして1972年には「スウッシュ」ロゴを採用した。ナイキは1980年代に文字通り成功の絶頂期を迎える。スポーツ用シューズは1985年のエアジョーダンをきっかけに、競技場からファッションの表舞台へと進出したからだ。
1990年代の終わりごろになって、アジアの工場での児童就労や製造工程の問題が起こり、ナイトの名誉とブランドの名声に傷がつきかねない事態になるが、強力な経営手腕と倫理問題に取り組む積極的な施策によって、ナイキは他の多国籍企業と比較してもより望ましい姿にになってきている。
生い立ち
フィリップ・H・ナイトはオレゴン州ポートランドに生まれた。高校時代、さまざまなスポーツに取り組みながら、同時に学校新聞の記者でもあった。高校卒業後、オレゴン大学に入学、経営学の学位を手にする。
子どものときから熱心な陸上のランナーだったナイトは、大学でも陸上競技のチームに入った。そのときのコーチがビル・バウワーマンで、当時コーチングに関しては、はるかに時代の先端にいた人物だ。運動選手のトレーニング指導はもちろん、選手の記録を伸ばすために、道具にもさまざまな試行錯誤を繰り返していた。
試行錯誤の一環として、アッパーソール(表甲)に軽量皮革、のちにナイロンを使った競技用シューズのプロトタイプをつくった。シューズがタイムを縮められるのは1秒にも満たないわずかな時間だろうが、競技ではそれが金メダルと銀メダルの分かれ目になる。
オレゴン大学を卒業するとスタンフォード大学のビジネススクールに入学、MBAを目指して勉強を始める。修士論文のテーマはマーケティングだった。論文の要点は、低賃金の労働力を使って効率的な生産を行えば、競技用シューズのマーケットで、アディダスやプーマといったドイツ企業を脅かすこともできるのではないか、というものだった。ナイトは卒業すると、この直感を実際に証明することに決め、1962年、シューズの製造メーカーを探すために日本を訪れる。オニツカタイガー(現在のアシックス)の小さな工場を見つけ、シューズを供給してくれるように説得した。
1964年にアメリカに帰国し、ナイトはもう一度バウワーマンとチームを組み、ブルーリボンスポーツ社を設立する。2人は新会社のためにそれぞれ500ドルずつ出し合った。初めて売る商品は、ナイトが自分のクルマの後部座席に積んだ。そうしてクルマを店舗がわりに、高校のスポーツイベントで競技用のシューズを販売した。