ところで上田には、起業家には珍しく「成功しておカネ持ちになりたい」といった野望がない。「収益至上主義ではうまくいかない」と信じているからだ。かといって、立派な企業理念だけでも不十分だという。

 それには起業前に経験した失敗が大きく影響している。日本の教育改革に興味があった上田は、手始めに中高生に教育プログラムを提供するNPOの立ち上げを模索。しかしこれが、「理念だけでは活動資金もままならず、継続が困難になった」。結局、立ち上げに至る前に失敗に終わってしまう。

 そんな折、今度は知り合いの先輩から偶然声がかかってIT企業の立ち上げに参画。ところがこれも、成功して収益を稼ぎ出すと、カネをめぐるトラブルに巻き込まれたのだ。

 株式の持ち合い比率をめぐる、オーナーや取締役たちのもめ事だった。「世の中をよくしたいという理念がなければ、ちょっとしたトラブルですぐに組織の求心力はなくなる」。こうした失敗経験が、今の上田の思想を創り上げたわけだ。

 いまや月間1万冊以上を売り上げる日本最大のオーディオブック事業者にまで成長。同時に強く掲げる企業理念は、「日本にオーディオブック文化を根づかせる」「究極のバリアフリー化の実現」だ。

アプリ「朗読少女」が70万ダウンロード突破
書評サイト事業も展開

 最近では、10年7月に販売を開始したiPhone用アプリ「朗読少女」が70万ダウンロードを超える快挙を達成。これは、『羅生門』『銀河鉄道の夜』といった名著を「乙葉しおり」という女の子のキャラクターが朗読してくれるというものだ。

わが社はこれで勝負!
オトバンクが運営するオーディオブック配信サイト「FeBe」。サイト上でダウンロードしたうえで、パソコンのほかMP3プレーヤーなどに入れて持ち歩くことが可能だ。書籍や雑誌に加え、ラジオや新聞の音声まで提供している

 制作の目的はあくまで「朗読」のすばらしさを広く知ってもらうこと。このアプリ関連事業に加えて、当初から書評サイト運営など書籍プロモーション事業を展開しているのも、すべてはオーディオブックを日本に根づかせるためだ。

 2年以内に1万タイトルを達成したいという上田は目下、ユーザーの年齢層の拡大を目指す。老眼に悩み始める50代以上向けに文芸書を拡充し、さらには子育てに勤しむ母親向けのエッセイなどの充実を図る予定だ。

 とりわけ、「子どもから手が離せず読書に不自由を感じている母親は多い」と上田は話す。「耳で聞き入る文化の浸透」という信念が、今も上田を突き動かしている。(敬称略)

(「週刊ダイヤモンド」編集部 池田光史)


うえだ・わたる/31歳。複数のNPO・IT企業の立ち上げ・運営を経て東京大学経済学部在学中の2004年オトバンクを設立。出版業界の振興やオーディオブック文化の浸透を目指している。

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