授業は「いじめ」への共通認識づくりのきっかけ

「いじめ予防授業」の内容を一通り紹介してきました。最後に、これが「予防」授業であることの意味を考えてみたいと思います。

 私は、教育現場において、“法”は、「生徒」「教員(学校)」「保護者」という三者に通す「団子の串」だと思っています。ひとたび「いじめ」が起きてしまうと、生徒の間に“被害者”と“加害者”という立場ができてしまい、どうしても感情的な対立が激しくなってしまいます。

 そこで、防災訓練で災害に備えて身を守る手順を学ぶのと同じく、「『いじめ』が起こったときはこう考えよう」と団子に“串”を通すように、三者が前もって共通の認識を持っておくことは非常に大切です。そして、その“串”として“法”は最適です。

“法”は、「個人の尊厳」を守るために存在し、そこに向かって互いの権利・利益を調整していく知恵の集積といえます。ですから、「いじめ予防授業」は、そうした“法”の知恵を三者に伝える道具になり得ます。とはいっても、完璧な道具というものは一つとしてなく、できることにはおのずと限界があります。

 そもそも、授業の目的は「『いじめ』を減らすこと」ではありません。「いじめ」は、子どもたちに何らかのストレスが加わることで増え、教職員間にコミュニケーションの齟齬(そご)がある場合などに重大化する可能性が高まります。「減らす」ことを目指すのであれば、平素から「いじめ」が起きにくく、重大化しない環境を整えることが最重要であり、年に一度の弁護士の授業だけでは、およそ実現できるものではありません。

 授業でできることは、あくまで予防という観点から、学校としての「いじめ」問題への“考え方”を、事前に共通認識として形成しておくための支援にすぎないのです。

 それでも、あらかじめ「どんな行為を『いじめ』と考えるか」の共通認識ができていれば、誰もが「いじめ」に気がつける土壌ができます。「『いじめ』は問題解決手段の選択を誤った結果である」という共通認識ができていれば、加害者の人格や感情を否定せず、手段のみに焦点を当てて反省を促すことができます。

「『いじめ』には構造がある」という認識を共有できていれば、「傍観者にできること」のハードルが下がり、当事者の周囲にいる“みんな”で「いじめ」の重大化防止に動ける可能性が高まります。「『いじめ』に対して“中立”に向き合うこと」の意味を共有できていれば、「自分は関係ない」といった違和感のある“理屈”や、声の大きい人の主張に簡単に流されてしまうことも少なくなります。

「いじめ」は、大人でさえ頭を悩ませる大きな問題です。一人ひとりが「自分にできること」を見つけ、諦めずに向き合っていく姿勢が、問題解決に向かって少しずつ進んでいく力になると私は考えています。いじめに対する「小さなNO」を、私たち大人からも発信していきましょう。