総合商社化に向けて
石油・自動車産業に重点投資
越後は総合商社化の際、重点的に投資したのが石油産業と自動車産業である。
彼はこう言っている。
「私(越後)はずっと三井、三菱のやり方を見ていましたから、どうしても総合化をやりとげなければいけないと一大決心をしまして、とくに石油と自動車には執念を燃やして取り組みました」(『峠越えの道』伊藤忠商事創業150年記念少史)
石油と自動車のような発足したばかりの部門に配置する人材は祖業ともいえる繊維部門から引き抜いてくるしかなかった。
だが、繊維部門にしてみれば、もうかっていて会社を支えているのに、有用な人材を取られてしまう。そうした人事政策を決めたのは越後だが、実施段階で繊維部門と話をするのは業務本部の瀬島である。繊維部門としては不本意だ。当然、瀬島と繊維部門の間にはあつれきが出てくる。なんといっても瀬島は東京にいたが、繊維部門は大阪だ。
越後も長期政権になった後半は東京にいて、瀬島とともにいることが多かった。戦前から働いていた繊維部門の幹部にしてみれば瀬島に親しみを持てるはずかない。そこで、不満を直接、越後に訴えるのだが、越後は取り合わない。繊維よりも、未来の産業、すそ野の広い、自動車と石油のことで頭がいっぱいだからだ。
高度成長から1970年代初めまでの日本経済は順調だった。慎重な経営よりもアグレッシブな経営を続ける方が正しかった時代だ。伊藤忠に限らず、商社全体が資源開発、重化学工業への投資を始めていた。
伊藤忠の東京本部は石油と自動車の案件に突き進む一方、大阪の繊維本部は地道な商売で会社に貢献していた。
伸びていく伊藤忠で屈託を感じていたのは、大阪で中小企業相手に営業に励む社員たちだったろう。
越後は繊維の出身だったが、後継者を繊維部門から選ぼうとは思っていなかった。引退を決意したとき、「瀬島を後任にしたい」と役員に諮ったこともあったという。
だが、誰一人「賛成です」と口に出した者はいなかった。
瀬島は業務本部長、常務、専務と次第に伊藤忠社内をグリップしていく。しかし、最後まで肯定的でなかったのは大阪にいた社員たちだったという。
総合商社化は当初、全社一丸となって行われたのではなく、東京にいる中枢部が突出して先導したというのが現実だった。(敬称略)
(ノンフィクション作家 野地秩嘉)



