猪瀬前都知事の辞任に伴う東京都知事選挙は、1月23日に告示され、2月9日に投票される運びとなった。候補者もほぼ出揃った感がある。政権与党の自民・公明は、舛添元厚労相を、民主は細川元首相を推す構えだ。ところで、今回の東京都知事選挙に当たって、私たち有権者は何を考えるべきなのだろうか。

70%台の投票率を目指そう

 今さら言うまでもないことだが、民主主義の基本中の基本は、まず投票所に足を運ぶことである。北欧を始めとする民主主義の先進国では80%台、90%台の投票率も決して珍しくはない。それは、選挙の持つ意味が、徹底して教育されているからではないか。

 昔、北欧の友人に聞いた話であるが、「どのような選挙であれ、事前にマスメディアの予想が公にされる。予想通りで良ければ選挙に行ってその通り投票するか白票を投じるかもしくは棄権すればいい。事前予想に賛成でなければ、選挙に行って、違う候補者(もしくは政党)の名前を書かない限り、有権者は意思表示をすることができない」というごく当たり前の事が、学校や地域・家庭で繰り返し徹底して教育されるそうだ。どこかの国のような「白票や棄権も立派な意思表示である(自己満足としてはそうかもしれないが、結果的には予想当選者もしくは予想第1党に投票したのと何ら変わるところがない)」とか「無党派層は寝ていてくれればいい」とかいった発言は、およそ考え得べくもない。

 ところで、戦後18回の東京都知事選の投票率をみると、70%台が2回、60%台が6回、50%台が7回、40%台が3回となっている。最高は、当時の美濃部都知事が「ストップ・ザ・サトウ」のスローガンを掲げて、秦野元警視総監と争った1971年選挙の72.36%であり、最低は、鈴木都知事と社会党の和田前参院議員が争った1987年選挙の43.19%である。一般に立候補者の顔触れが多彩で、争点が明確である場合は、劇場効果が働き投票率が上がる傾向にある、と言われているが、よくよく考えてみれば、これほど有権者を愚弄した話はないのではないか。

 確かチャーチルの言葉だったと記憶するが、「政治を志す人は立派な人ばかりではなく、とんでもない人も大勢いる。選挙とはそういった有象無象の候補者の中から、相対的に現時点で税金を分けるのにマシな人を選び続ける『忍耐』そのもの」なのだ。チャーチルのように一切の幻想を排した「リアリズム」を私たち有権者がきちんと認識し、腹落ちしていれば、候補者の出来不出来にかかわらず、北欧諸国のように投票率を上げることはそれほど難しくはないはずだ。今回の知事選挙で、私たちが真っ先に考えるべきことは、まず投票率を上げることである、と考える所以である。