先週の本コラムの反響の大きさに驚いている。
ベスト4を目標にしていた日本代表が、ベスト16で敗退したにもかかわらず、国内のマスコミはお祭り騒ぎであった。
「感動をありがとう」、「勇気をもらった」など、繰り返すが、ファンがそれを言うのはまったく問題がない。問題は伝える側のメディアが、一緒になってはしゃいでしまっている恥かしさにある。
そもそもメディアの仕事は、ファンと一緒に感動するのではなく、試合を通じて「感動」を伝えることにあるのではないか。
そのために、給料をもらい、テレビ局や新聞社は高いギャラと経費を払って、南アフリカまで彼らを送っているのではないか。
日本ではメディアが
サッカー界の発展を阻害!?
しかし、日本ではいつものことだが、そうではないようだ。客観的な分析を行い、サッカー解説者がファンと一緒になって騒いでそれで仕舞いになってしまう。厳しさを欠いたこの種の慣習が長年続き、それが日本のサッカーの発展を阻害してきたといっても過言ではない。
思えばいつでも、日本のスポーツ界にはメディアを発信源としたこの種の甘えがはびこってきた。それは選手たちの問題ではない。協会やメディアを含む周囲の問題なのである。
1998年、日本は初めてワールドカップへの出場を果たした。
「ジョホールバルの歓喜」と呼ばれるアジア最終予選でのイランへの勝利では、確かに日本中が歓喜の渦に包まれた。
だが、実はその「歓喜」の夜こそが大切だった。そこから次のステップは始まっていたのである。