
日本サッカーの未来に絶望し、一度はサッカー協会を去った男が、やがて「Jリーグ」という前例のない挑戦へと踏み出す――。Jリーグ設立という偉業の裏には、実は「エリート会社員人生の挫折」という意外なきっかけがあった。名門企業で順調に出世を重ねていたころは、「いい家・いいクルマ・いい給料が欲しい」と自分中心の考え方だったと語る川淵三郎氏は、50代後半から日本サッカー界のために奔走する。「日本でプロサッカーなんて無理だ」と冷笑された時代に、なぜ彼は敢えて茨の道を選んだのか――その決断の裏側には、日本サッカー界に対する“ある強烈な危機感”と、会社員時代に食った“まさかの冷や飯人事”があった。(構成/ダイヤモンド・ライフ編集部)
会社員のころ、欲しかったのは
いい家、いいクルマ、いい給料
――日本は「失われた30年」と言われ、経済が停滞しています。しかし、その裏で「獲得した30年」があったと思っています。それがスポーツです。
そうかもしれない。また僕の自慢話を聞いてもらえるってわけだね(笑)。
――スポーツが牽引する形で、日本のソフトパワーは、どんどん地位を高めていますよね。私はそういう決定的な要素を作ったのは、やはりJリーグだったと思います。川淵さんが1989年に「日本にもプロサッカーリーグをつくるんだ」と表明されて、ワールドカップ招致も含めて取り組まれました。まずは、なぜそんな発想が出てきたのかをお聞きしたいです。
僕は日本サッカーに幻滅していたんだよ。1983年ごろかな……ロサンゼルスオリンピックの最終予選では、タイ(4月3日現在FIFAランキング99位、日本は15位)にも負けて大敗した。
僕は当時、オリンピックの強化部長をしていて、責任を取って辞めるときに協会に建白書を出した。「日本のサッカーは変わらなくてはダメだ」と具体的な改革案を出して提言したんだけど、何の返答もない。日本サッカーの先行きは暗いと、希望を持てなくなっていた。それで、勤めていた古河電気工業の仕事に邁進しようと、サッカー協会の仕事はやめたんだ。1984年頃のことだね。