要約本文

◆日本会議の源流
◇打倒全学連からすべては始まった

 今、憲法改正運動で、重要な役割を果たしているとされる「日本会議」が注目を浴びている。日本会議は今年で結成20年を迎え、その勢力を拡大している。

 日本会議の源流は、1960年代の学園紛争だ。左翼学生がキャンパスを席巻していた長崎大学に、新宗教「生長の家」信者である椛島有三(かばしま・ゆうぞう)と安東巌が入学したことが始まりだ。

 当時、生長の家は、反共愛国・靖国神社国家護持・現憲法破棄と明治憲法復元を掲げる神道系の教団だった。生長の家の呼びかけで、生長の家学生会全国総連合(生学連)が1966年に結成された。

 1969年には、右派学生の連合体である全国学生自治体連絡協議会(全国学協)が組織され、生学連がその中核を担い、安東が書記長を務めた。当時の大学では、三派全学連・共産党系の民青・革マル派と、左翼学生が活発に活動していた。椛島と安東はこうした左翼に対抗し、ビラ・新聞・講演会を駆使して、自治会を掌握した。この組織的戦術を全国に広げ、各地の民族系学生をまとめあげたというわけだ。

◇三島事件という衝撃

 日米安全保障条約が自動延長となり、60年安保闘争が終結したことで、若者たちの政治の季節は終わった。1970年、椛島は民族派社会人組織「日青協」を結成した。

 日青協の思想的支柱となっていたのが、国民文化研究会の小田村寅二郎、生長の家創始者の谷口雅春、神社新報主筆の葦津珍彦(あしづ・うずひこ)と、作家の三島由紀夫の「四先生」だった。

 ところが、三島由紀夫は「楯の会」の4人と共に自衛隊市ヶ谷駐屯地を訪れ、益田総監を人質に取り籠城。割腹自殺を遂げてしまう。この三島事件が社会へ与えた衝撃は大きく、多くの右翼・民族派が三島の行為を賛美した。そして、70年安保闘争後に左翼が衰退し、敵を見失い停滞期にあった右翼・民族派全体が、この三島事件により息を吹き返した。

 その後、民族派運動はスローガンを「反全学連」から「ヤルタ・ポツダム(YP)体制打破」に変え、「真の日本独立」を目標にすえた。YP体制打破とは、対米従属路線を否定し、反占領憲法・対米自立・自主防衛を目指す考えのことだ。

 三島事件の裁判を通じて、民族派は「占領憲法破棄・明治憲法復元」を訴え、憲法改正論議を盛り上げようと活動した。しかし改憲論議は高まらず、裁判でも被告全員に実刑判決が下された。すると、支援者の間に失望が広まり、民族派の団体も四分五裂していった。