最初に配属された編集部のボスから原点を教わった

田端 著書にも書いていましたが、最初に配属された編集部には、いわゆる名物編集長がいらっしゃったわけですよね。「編集部の冷蔵庫のビールを絶対に切らすなよ!」とおっしゃったという……。

新谷 私が1989年に新卒入社して初めて配属されたのが「Sports Graphic Number」編集部で、設楽敦生編集長が最初の上司となりました。設楽さんは私が入社した年に初めて編集長に就任したのです。編集長になって初めての新入社員だってこともあって、私のことを格別に可愛がってくれました。

 著書にもその当時の話について詳しく触れていますが、書きながら当時の編集部の雰囲気を思い出して、涙が出そうになりましたね。当時、設楽さんから教わったことがまさに私の原点です。本当に仕事って面白い。編集者の仕事って自由で、楽しい。自分の発想にブレーキをかけることなく、その面白いと思った仕事をとことんフルスイングでやりまくる。

田端 著書を読んでいても、そういった思いが伝わってきますね。

新谷 設楽さんの思い出を書いたことで、その後、嬉しい展開もありました。設楽さんは50歳代で亡くなってしまいましたが、私の著書を読んだという設楽さんの甥に当たる人から、連絡をいただいたのです。「叔父のことを本に書いていただいて親族一同が本当に喜んでおり、お礼もかねてぜひお目にかかりたい」といった内容の手紙でした。その後、とんとん拍子で話は進み、親族の皆さんとともに当時の部下たちが一堂に会して、「設楽敦生を語る会」を開催することになったわけです。しかも、朝日新聞の書評欄の取材を受けた際にその話をしたら同紙でも取り上げられ、設楽さんの親友だったとい人たちからも手紙を頂戴しました。それで、会の参加者がどんどん増えていったのです。

 そういった人たちとの結びつきやご縁、交流の積み重ねの上に今の自分や文春という雑誌があるのだということを実感したエピソードです。同時に、本を通じて世の中に何かを発信した際のインパクトの大きさにも驚きました。本当に本を書いてよかったと思っています。

田端 僕自身も出版社勤務の経験があるだけにつくづく思うのですが、文藝春秋は業界内でも稀有な存在ですね。「週刊文春」に月刊の「文藝春秋」、「Number」、「CREA」といった異色の顔ぶれの雑誌を出していて、さらに書籍まで手掛けているわけですから。本社の1階に設けられたサロンにも優雅さが漂っているし、会社全体として非常に振り幅の広さを感じます。

新谷 確かに、いろいろな意味で開放的な会社だと思いますね。

田端 そして、新谷さんいわく、月刊(文藝春秋)で作って週刊で壊すっていうシステムがある(笑)。

新谷 月刊で作った人間関係を週刊で壊してしまうことも少なくないけど、それをもう一度作るためには愛嬌のようなものが求められる。読者の側から見ても、どこかに親しみやすさや可愛げのようなものを感じてもらいたいなという思いはありますね。偉そうに拳を振り上げて断罪、告発するのではなく、もっと面白がってもらいたいというスタンスで記事を作っています。

 たとえば、トレンディエンジェルの斎藤司さんが結婚寸前だった女性を捨てて新恋人に乗り換えたという騒動の一部始終を記事にしましたが、「私も人間ですから……」という彼のコメントがその一例です。善し悪しは別として、「モラル的にはダメだとわかっちゃいるけど、それでも止められないのが人間だよね」というリアルを読者に伝えたいと思うわけです。

田端 文春砲のターゲットとなった当人のところには、必ず事実関係の確認を求めに出向くわけですよね。その際に、相手が清濁併せ呑むという見事な対応で、そのように至った経緯について激白してくれたら、いっそう面白い記事になりそうです。

新谷 渦中の当人に語ってもらったほうが記事としては一層生々しくなります。歌舞伎の8代目中村芝翫さん(当時は橋之助)のケースもそうでしたけど、常にご本人に直接お話をうかがう努力はしています。トレエンの斎藤さんなんて、本当に丁寧に対応してくれて。それで、「二股だっていいじゃないか。人間だもの。みつお。」みたいなコメントが出てきたわけです。