つねに世間を賑わせている「週刊文春」。その現役編集長が初めて本を著し、話題となっている。『「週刊文春」編集長の仕事術』(新谷学/ダイヤモンド社)だ。本連載では、本書の一部を抜粋してお届けする。
(編集:竹村俊介、写真:加瀬健太郎)
私が顔を出さない理由と、それなのに本を出版した真意について述べたい。
私は取材を受ける際、顔を出していない。人さまのプライバシーを暴いている人間が卑怯だとお叱りを受けることもある。
1964年生まれ。東京都出身。早稲田大学政治経済学部卒業。89年に文藝春秋に入社し、「Number」「マルコポーロ」編集部、「週刊文春」記者・デスク、月刊「文藝春秋」編集部、ノンフィクション局第一部長などを経て、2012年より「週刊文春」編集長。
一方で、「向かうところ敵だらけ」とよく冗談を言っているからか、「そりゃ狙われると危ないですからね」と納得される場合も多い。私もたいていは「そうですね」などと調子を合わせている。実際、記者時代を含めて、胸ぐらをつかまれて殴られそうになったり、恫喝めいたことを面と向かって、あるいは電話で言われたりした経験は数えきれない。
山口組若頭射殺事件の関連で、ある大物組長の取材をしたときには、こんなこともあった。取材の最後にその組長に写真撮影をお願いすると、「写真十年や」と断られた。「ワシらの世界では、近影が出るとそれだけ的にかけられやすくなるから、寿命が十年縮むんや」というのだ。その取材からまもなく、インタビューした幹部3人のうち2人が射殺されたときには本当に驚いた。
だが、これはこの場を借りて強調しておきたいのだが、現在、私が顔を出していない理由は、狙われるのが怖いからではない。この仕事をやっていれば、そうしたリスクを覚悟するのは当然のことだ。
それよりも私が気にかけているのは、編集長が雑誌の前に出すぎる弊害だ。偉そうに感じたらお許しいただきたいのだが、「週刊文春の誰々」ではなく「誰々の週刊文春」となってしまったら、この雑誌の将来にマイナスの影響が及ぶように思うのだ。
実際、花田さんが編集長を辞めた後、週刊文春は苦戦を強いられた。あの当時、花田さんはテレビにもどんどん出ていたし、明らかに「花田さんの週刊文春」だった。しかも次に編集長になったのが、私が社内で一番好きだった設楽さんだ。私は週刊文春の編集部にはいなかったが、たまに社内で見かける設楽さんは、「Number」時代と比べてずいぶん苦労している印象だった。これは設楽さんが花田さんにくらべて編集長として劣っていたというわけではないだろう。タイプが全然違うのだ。テレビでもおなじみの花田さんによる刺激的な雑誌の後に、オーソドックスなものを作っても読者は物足りなく感じてしまう。週刊文春には目立ってほしいが、編集長は目立ちすぎない方がいいのだ。私の顔は、和田誠さんが毎週描いてくれる表紙なのだと決めている。
では、なぜ本書を自分の名前で出版するのか。
本書の冒頭に書いたように、我々の経験や仕事に取り組む上での考え方が多くの人に役立てばうれしいと思ったことがひとつ。もうひとつは時代の変化によるものだ。
そもそも文藝春秋に限らず、「編集者、記者は黒子であれ」というのが、出版界の不文律だ。目立たず騒がず、あくまでも作品なり、記事で評価されるべきであり、作り手側が前面に出ることをよしとしない。
だが、時代は変わった。情報の送り手と受け手の力関係は激変し、あらゆる情報が玉石混淆となってネット上に飛び交うようになった。匿名のまま木で鼻をくくったような対応ばかりしていては、情報の信憑性は十分には伝わらない。送り手の「顔」が見えづらいと、情報は説得力を持ちえないのだ。さらに言えば、取材のプロセスも含めて「見える化」していかないと、記事そのものをなかなか信用してもらえない。そうした時代に即応し、読者との距離を近づけるためには、折りに触れて、週刊文春の編集方針や取材・編集過程についても説明する努力が必要だと思っている。