2011年11月21日、
オウム真理教を巡る全公判が終了した
この連載の担当編集である笠井一暁から昨日届いたメールの一部を、まずは以下に引用する。本人の承諾はとっていない。一応は作家の肩書を持つものに編集者として送ったメールなのだから、いつどのように利用されようが文句を言えるはずがないと、勝手に解釈している。
オウム真理教による事件の全公判が終了しました。メディアもこれを大きく扱い、自分もできるかぎり新聞の社説や記事を読みましたが、そのほとんどに共通しているのが「事件の真相はまだ解明されていない」という指摘でした。同時に多くの記事やニュースが「事件を風化させてはいけない」「事件について考え続けなければいけない」などと結んでいるのですが、ならば具体的にどうすべきなのか、あるいはもっと踏み込んで「司法の場でもう一度真相を解明すべき」との主張は、どうしても見つけることができませんでした。
「事件について忘れてはいけない」、「考え続けなければいけない」という指摘に、私はもちろん賛成です。しかし、「真相は解明しきれてない」と指摘しながら、裁判が終結することに異議をまったく唱えないことに、強い違和感を覚えました。司法の場で真相を解明する道が閉ざされようとしているのに、私たちは真相のわからない事件について、何をどう考え続けなければいけないというのでしょうか?
また、「麻原が他者と意思疎通できない状態が続いている」と報じる記事やニュースはかなり目にしましたが、そのほとんどに、麻原が「口を閉ざしている」という表現が使われており、森さんの著書である『A3』を読んだ私としては、麻原が自らの意志で口を閉ざしているのか、それとも弁護側が主張するように精神障害によって意思疎通ができなくなっているのか、その点にわざと言及するのを避けているのではないかと思ってしまいます。なぜ、麻原に事件の真相を語らせるべきという指摘がされないのでしょうか?
「事件を風化させるな」「事件について考え続けろ」と言いつつも多くの報道の焦点は、すでに「真相の解明」ではなく「死刑執行できるかどうか」にあり、裁判の終結と死刑執行が前提となっているようです。幕引きが前提で形だけ申し訳程度に「事件を風化させるな」と言っているのではないかと考えてしまいます。森さんはどのように感じられましたか?