「僕自身、体が弱くて、小さいときには病気ばかりしていました。その頃、往診してくれる先生がいましてね、スクーターを運転して真夜中でも来てくれる。今、自分に同じことをやれと言われてもできません。しかも優しいんだよね。医療的には大したことなかったんだろうけど、顔を見るだけで安心して、病状が和らいだ。仕事として一生を懸けるなら、医者がいい。自分は僧侶ではなく、医者になりたいと思うようになりました」

 ただ、僧侶も医師も、「人を救う仕事」であることは共通している。その意味で木田先生は、「心」と「伝える技術」を、父親から受け継いだといえるのではないだろうか。

 寺を継ぐのはやめて、“崖から飛び降りるような覚悟”で医師を志した先生は親を説得。「自宅から通える大学なら許す」という条件に唯一当てはまる金沢大学の医学部を受験し、見事合格したのだった。

19年、若い仲間とともに
新たなクリニックを開院

「学生時代は極めて真面目でしたね」と振り返る木田先生。北陸の城下町にいながらも、視線は世界に向いていた。インターナショナルなセンスをつかみたいと、教科書等はすべて英語の原文で読み、貪欲に学ぶ学生時代を過ごしたという。

「あの頃も今も、患者さんがいる限り、これでいいんだという気持ちになったことはありません。いつも不満足というか、自分は至らなかったという思いでいます。自分が患者さんを診る限りは、常に新しいものに接して、最先端の知識で治療してあげたい。いい治療法があるのに、たまたま勉強不足だったばかりに、患者さんに迷惑をかけるということはあってはならないと思っています。

 学生にも言いました。『君たちに教えたことは、残念ながら卒業後5年ぐらいしか間に合わない。その後は自分の力でそれに足していってほしい。それを足していく技術を僕は教えているつもりなんだ』と」

 大学院を終了した後は、呼吸器内科の分野を極めるべく金沢を離れ、東京都老人医療センター(現、東京都健康長寿医療センター)に勤めたがまだ物足りない。悩んでいたところ、たまたま目にした医学情報誌で、かねてより尊敬していたカナダの呼吸器科の著名医ウィリアム・サールベック氏がリサーチ・フェローを募集していることを知った。