生徒の自信は「余計なことをしない」ことから

難波 DSDAでは、心理的安全性の確保と自己効力感の向上を大きな目標としていましたので、さまざまな経験を繰り返す中で、どんどん意見が出るようになってきました。それは、とてもうれしかったですね。

――自己肯定感が低いわけでも高いわけでもない普通の生徒たちが、地に足の着いたことを言うようになったと聞きました

難波 授業をそれぞれ生徒の興味関心と結び付けやすくするようデザインしていたことと、普通の授業を削ってでも「さまざまな事象をどう見るか、どう考えるか」という見方・考え方を育むための時間(1週間)を確保できたことが大きかったと思います。ただ漫然と見るのではなく、思考の方法や多面的な見方を学ぶ機会を設定しました。

――先生が「いい」と認めてあげる。生徒に対して「余計なお世話」をせず、「やれるんだ」という感覚を子どもたちが持てるようにしたことが大きかったのですね。

唐澤 余計な指図や大きなお世話はせず、駄目とも言いません。その程度のことで自信が付いていく生徒は多いのです。着任早々に担当した生徒たちは、テストの成績や模試の偏差値が低いから自分は何もできないと思い込んでいるように見えましたから、教育活動の中で自己効力感の向上を意識していました。

――「その程度」のことができない教員が多いのかもしれません。本当に生徒と教員との信頼関係ができるかどうかですね。

難波 生徒を信用できない教員は、結果が可視化できるもの、例えば総合型選抜での受験にメリットがあると思えるコンテストなどに生徒を追い立てる方が楽なのかもしれません。

飯泉 「探究」的な活動を何年もやってきた経験から、教員が成果を求め過ぎないことが重要だと確信しています。コンテストなどの受賞ありきの「探究活動」は、本来の目的とは異なりますし、生徒がそういった活動を嫌になってしまうだけです。生徒に教員が決めた「課題」を「させる」という発想ではなく、生徒がやりたいことを見つけ、深掘りしていくのを応援する。そのような時間を学校に用意することが、「総合的な探究の時間」の意義の一つではないでしょうか。

難波 下手な「成果主義」によって、この先、数学嫌いのように「探究嫌い」な生徒が出てくる可能性もあります。成果を求め過ぎれば、生徒たちは少なからず拒否反応を示すでしょう。「探究嫌い」を生んでは「探究」の意味はないのです。

――以前から「グループワーク嫌い」な生徒がいるというのは聞きます。

難波 それは容易に想像が付きます。教員の多くは生徒をコントロールしたいですから、グループワークへの参加も強要します。DSDAでは生徒の様子やテーマを見ながら、ある程度協働できる生徒にはグループワークへの参加を促したり、逆に難しい生徒にはとりあえずは1人で作業することを許容したりと、協働作業であっても「個別最適化」を考えながら接していました。参加を強要しなければ、グループワークは嫌いになりにくいものです。

――先生が生徒を信用していれば、生徒はきちんと自己評価ができます。

唐澤 生徒は信用されれば、余裕ができてメタに事象を認知できるようになりますし、むしろメタ認知ができれば謙虚に自分を見つめられるようになります。生徒たちとの活動から、そう実感しています。