ところで、生産性上昇を伴わない賃上げを賄う方法は二つある。

 第1は、企業利益を減らして賃上げを賄うことだ。中小零細企業は、そうならざるを得なかった場合が多いと考えられる。

 第2は、企業が、賃上げ分を売り上げ価格引き上げに転嫁することだ。大企業の場合の賃上げは、主としてこの方法によって行なわれたと考えられる。転嫁は取引の各段階で行なわれ、賃上げ分は、最終的には消費者物価を引き上げることになる。

 大企業の利益の状況を見ると、ここ数年、減ったのでなく。むしろ増えている。これは、企業が利益を減らして賃金を上げる第1の方法でなく、転嫁という第2の方法で賃上げが賄われたことを示している。

賃金と物価、好循環でなく「悪循環」
生産性上昇ないとスタグフレーションに

 政府や日本銀行は、現在の状況を「賃金と物価の好循環」だとしている。植田和男日銀総裁は、追加利上げを決めた7月の金融政策決定会合後の会見で「春闘の結果が着実に反映され、大企業のみならず、幅広い地域・業種・企業規模で賃上げの動きに広がりが見られている」と語った。

 しかし、すでに見たように、これは労働コスト上昇を消費者に転嫁することによって実現する賃上げであり、コストプッシュインフレを引き起こす「賃金と物価の悪循環」だ。

 私は、春闘による高い賃上げが不必要だったと言っているのではない。急激なインフレが起こった以上、名目賃金が上がらなければ、実質賃金は大きく低下してしまう。こうした事態に対する緊急措置として、名目賃金の大幅な上昇が必要だったことは間違いない。

 ただし、本来であれば、世界の多くの中央銀行がそうしたように、2022年以降のFRB(アメリカ連邦準備制度理事会)の金利引き上げに追随して金利を引き上げて激しい円安の進行を食い止め、それによって少しでも物価上昇率を抑えることが必要だった。

 そして、将来に向かっての問題は、いま生じている実質賃金上昇のメカニズムが生産性上昇を伴わないものであるため、長期にわたって継続できないということだ。

 必要とされるのは、生産性の向上を実現し、それによって実質賃金を引き上げていくことだ。そのようなメカニズムを始動させなければならない。それを怠っていまのメカニズムを残したままでは、日本経済は深刻なスタグフレーションに落ち込むだろう。

(一橋大学名誉教授 野口悠紀雄)