正気じゃないけれど……奥深い文豪たちの生き様。42人の文豪が教えてくれる“究極の人間論”。芥川龍之介、夏目漱石、太宰治、川端康成、三島由紀夫、与謝野晶子……誰もが知る文豪だけど、その作品を教科書以外で読んだことがある人は、意外と少ないかもしれない。「あ、夏目漱石ね」なんて、読んだことがあるふりをしながらも、実は読んだことがないし、ざっくりとしたあらすじさえ語れない。そんな人に向けて、文芸評論に人生を捧げてきた「文豪」のスペシャリストが贈る、文学が一気に身近になる書『ビジネスエリートのための 教養としての文豪』(ダイヤモンド社)。【性】【病気】【お金】【酒】【戦争】【死】をテーマに、文豪たちの知られざる“驚きの素顔”がわかる。文豪42人のヘンで、エロくて、ダメだから、奥深い“やたら刺激的な生き様”を一挙公開!
日本初・男女共学の学校を創設
大阪生まれ。本名・与謝野志やう、旧姓・鳳。堺女学校(現・大阪府立泉陽高等学校)卒。代表作は『みだれ髪』『君死にたまふことなかれ』など。歌人・詩人であり、平塚らいてうが創刊した雑誌『青鞜』に参加し、女性解放運動に貢献した。老舗の和菓子店を営む家に3女として生まれたものの、後妻の子のため抑圧されて育つ。10代後半から和歌を雑誌に投稿するようになり、明治34(1901)年に発表した歌集『みだれ髪』で一躍有名に。大ファンだった歌人・与謝野鉄幹の追っかけになり、猛アピールして結婚。人並み外れた行動力で大正期の文学の発展に大きく寄与した。晩年は脳出血により半身不随に。昭和17(1942)年に症状が悪化し、尿毒症を併発して63歳で死去。
奇想天外な与謝野夫妻ではありますが、株の上がる話もあります。
大正10(1921)年、晶子が43歳のとき、夫・鉄幹のほか、建築家・西村伊作や美術評論家・石井柏亭とともに、東京・神田に日本初の男女共学の平等教育を行う「文化学院」を創設しています。
当時の学校は男子のためのもの。女学校も「良妻賢母」を育てることがおもな目的でした。そこにもっと自由な女性像を求め、平等教育を持ち込み、リベラルな校風の学校を創設したのです。
時代を確信的に変えた
“伝説的な学校”
与謝野夫妻も自ら教壇に立ったほか、川端康成、芥川龍之介、小林秀雄など、拙著『ビジネスエリートのための 教養としての文豪』(ダイヤモンド社)で興味深いエピソードを紹介している文豪たちも教壇に立ちました。
文化学院は平成30(2018)年に閉校しましたが、時代を確信的に変えた“伝説的な学校”といっても過言ではありません。
はちゃめちゃなトラブルも多数起こしてきた与謝野夫妻ですが、大正時代の自由なムードを醸成する一助になったのは、間違いありません。
※本稿は、『ビジネスエリートのための 教養としての文豪』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。