「いつも浅い話ばかりで、深い会話ができない」「踏み込んだ質問は避けて、当たり障りのない話ばかりしてしまう」上司や部下・同僚、取引先・お客さん、家族・友人との人間関係がうまくいかず「このままでいいのか」と自信を失ったとき、どうすればいいのでしょうか?
世界16カ国で続々刊行され、累計26万部を超えるベストセラーとなった『QUEST「質問」の哲学――「究極の知性」と「勇敢な思考」をもたらす』から「人生が変わるコミュニケーションの技術と考え方」を本記事で紹介します。

自分の判断に固執しない
私たちは一日中、さまざまなことについて判断を下している。それは問題ない。
判断しなければ、サンドイッチにピーナッツバターとジャムのどちら(または両方!)を塗りたい気分なのかがわからないし、粋な赤いジャケットを買うべきか、セクシーなブルーのジャケットを買うべきかもわからない。
どんなキャリアを目指すべきか、どの学校が子どもにとって最適かなど、人生の重要な決断もできない。判断は私たちの生活のあらゆる側面を彩り、影響を与えている。
初対面の人と会うと、約8秒で判断が働き、「この人は好きだ。仲良くやっていけそうだ」「この人とは気が合わないだろうな」といった第一印象が形成されるという。
判断は人間にとって呼吸と同じくらい基本的なものだ。
判断は人生を楽しく、刺激的で、豊かで、扱いやすいものにする。
判断を封じ込めようとしたり、検閲しようとしたりすれば、不幸になるだけだ。
何かに批判的な判断を下している自分に気づき、そうすべきではないと思っても、それ自体が自分に対する批判的な判断になり、罪悪感や不幸の素《もと》になってしまう。
判断はしてもいい。好むと好まざるとにかかわらず、それは起こるものだからだ。
ただし、ご想像の通り、これらの前には大きな「しかし」がつく。
なぜなら、私たちの判断は、的外れでずさんであることが多いからだ。
私たちは判断を急ぎ過ぎて、ニュアンスや機微を見落とし、不完全な情報に基づいて意見を口にしてしまう。
また、自分の考えに固執し過ぎる。自分の判断を、真剣に受け止め過ぎてしまうのだ。
一度、誰かを「傲慢なエゴイスト」と判断してしまうと、それに反するような考えを抱こうとしなくなる。これは心理学で「確証バイアス」と呼ばれるものだ。
人は、自分がすでに形成した判断を補強しようとするあまり、視野が狭くなり、反対の証拠を無視しようとする。
判断するのはよくないと主張する人は、そうした考え自体が紛れもない判断であることを思い出してみるべきだ。そう、それはまったくの矛盾なのだ。
このような考えをもつ人がいるのは、非難と判断が混同されることが多いからかもしれない。
非難とは不賛成や拒否のことであり、判断とは推論によって結論を導くことだ。
私たちは、この2つを同時にしていることが多い。
観察に基づいた判断を下していながら、「ああ、フレッドはだらしないなあ!」と言うことで、その表現やイントネーションによって彼を非難しているのだ。
ソクラテス的態度を身につけるとは、この2つを切り離すことだ。
すなわち、状況をありのままに観察し、できるだけ客観的に判断すること。
その次のステップは、「本当にこの判断で正しいだろうか? 自分の発言や思考は適切だろうか?」と考えることだ。
(本記事は『QUEST「質問」の哲学――「究極の知性」と「勇敢な思考」をもたらす』の一部を抜粋・編集したものです)