芥川龍之介も太宰治も、彼なしでは存在しなかった…知られざる名プロデューサー菊池寛伝説
文芸作品を読むのが苦手でも大丈夫……眠れなくなるほど面白い文豪42人の生き様。芥川龍之介、夏目漱石、太宰治、川端康成、三島由紀夫、与謝野晶子……誰もが知る文豪だけど、その作品を教科書以外で読んだことがある人は、少ないかもしれない。「あ、夏目漱石ね」なんて、名前は知っていても、実は作品を読んだことがないし、ざっくりとしたあらすじさえ語れない。そんな人に向けて、文芸評論に人生を捧げてきた「文豪」のスペシャリストが贈る、文芸作品が一気に身近になる書『ビジネスエリートのための 教養としての文豪』(ダイヤモンド社)。【性】【病気】【お金】【酒】【戦争】【死】をテーマに、文豪たちの知られざる“驚きの素顔”がわかる。ヘンで、エロくて、ダメだから、奥深い“やたら刺激的な生き様”を大公開!
※本稿は、『ビジネスエリートのための 教養としての文豪』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。

大ヒット作『真珠夫人』作者
マルチな才能に驚愕
文豪たちを支えた名プロデューサー
芥川龍之介、太宰治、川端康成など、後世に語り継がれる作家が活躍した背景には、菊池寛という名プロデューサーの存在がありました。
のちに文豪と呼ばれるようになる才能を見出し、執筆の機会を与え、ときにはお金を貸すなど生活面でのサポートをして、世に送り出してきたのです。
菊池は、小説家としてはそれほど有名ではないかもしれませんが、日本の文芸界にとっては欠かせない存在です。
多彩な顔を持つ男、菊池寛
小説家であり、文芸芸術のプロデューサー、著名人のスキャンダルやスクープで“文春砲”を放つ『週刊文春』でお馴染みの出版社「文藝春秋」の創設者でもあります。
菊池自身も人気作家として活躍しながら、さまざまな顔を持つ、とてもユニークな存在です。なんと一時は、芥川よりも菊池のほうが人気だったこともあるともいわれます。
菊池の人生をひもといていくと、ビジネスパーソンとして非常に優秀であるとともに、大変な努力家だったことがわかります。
何をやらせても一流だったといっても過言ではないのですが、経営者として働くかたわら、休日を使って個人で仕事をする「副業」や、複数の仕事を兼任する「複業」など、1つの職場環境に依存しないのが当たり前になった現代のビジネスパーソンにとってのロールモデルになるような人物ともいえます。
貧乏だった少年時代と“本の虫”
菊池の幼少時代は、あまり恵まれたものではありませんでした。
香川県香川郡高松(現・高松市)に生まれ、父親は小学校の庶務係、母親は内職をしていました。のちに菊池は、「少年時代は貧乏で嫌な思い出しかない」と語っています。
経済的に恵まれない家庭に生まれ、ほしいものも買ってもらえなかったのでしょう。菊池が入り浸っていたのは、中学3年生のときにできた地元の公共図書館でした。
その図書館には約1万8000冊が蔵書されていましたが、文学や歴史など興味のある本はすべて読んだそうです。まさに“本の虫”だったのです。
波乱万丈の学生時代
成績優秀だった菊池は、中学を卒業すると上京し、学費免除で東京高等師範学校(現・筑波大学)に入学しました。
師範学校は教師を養成する学校ですが、菊池は教師になるつもりはなく、授業をサボっては芝居見物をしたりテニスをしたりしたことから、除籍処分となってしまいます。なんとなく豪放磊落な性格がうかがえます。
その後、地元のお金持ちから将来を見込まれた菊池は、養子縁組をして経済的な支援を受け、明治大学法学部に進学しましたが、わずか3カ月で退学。さらには、兵役を逃れるため早稲田大学に籍を置きつつ、第一高等学校(現・東京大学教養学部)を受験する準備をしたのですが、これが養子縁組をした地元の養父にばれて、縁組を解消されてしまいます。
しかし、実家の父親が、貧しい状況ながら借金をしてでも学費を送ると申し出てくれたことから、菊池は22歳にして第一高等学校第一部乙類に合格。ところが卒業間際になって、盗品と知らずにマントを質入れした通称「マント事件」によって退学処分となります。
小説家への第一歩
すると、今度は京都帝国大学文学部英文科に入学。ところが、旧制高校卒の資格がないため、「本科」ではなく、規定の学課の一部のみを選んで学ぶ「選科」に進まざるを得ませんでした。
そのときに短編小説『禁断の木の実』を書き上げ、日刊紙『萬朝報』の懸賞に応募したところ当選したことで、小説家としての第一歩を踏み出したのです。
その翌年には、旧制高校の卒業資格検定試験に合格して、京都帝国大学文学部英文科の本科に進むことができましたが、それにしても七転び八起きのなかなかお目にかかれないほどの、なんとも波瀾に富んだ遍歴です。