目に見えないものが
見えなくなった現代人
――なかなかそういう心境にはなれそうもありませんが。
だって、貸したらそのお金はもう自分の手を離れたのだから、執着してもしょうがないじゃありませんか。
もっとも私だって、お金を貸してくださいとやってきた人に、誰でも貸すわけではありません。貸すか貸さないかを決めるのは自分の哲学です。哲学は大事ですよ。哲学があれば貸すか貸さないか悩まなくてすむし、返ってこなくてもああそうかという気持ちでいられますからね。
――逆に損得で動く人のことはどう思いますか。
好きじゃないですね。小金を持った人が亡くなったとき、残された人たちが取り分をめぐって争うような話を耳にすると、実に不愉快です。自分で苦労して稼いだお金でもないのに、それこそ下衆な所業だと思いますよ。
明治のころは、お金に執着するのは卑しいことだという考え方を、多くの日本人がしていましたが、いまは逆に、お金を儲けて何が悪いって開き直っているでしょ。それがいけないとはいいませんが、自分はそうはなりたくないですね。自分の孫にもさすがに損する生き方を薦めはしませんが、儲かっても損をしても笑っていられるような、損得に振り回されず恬淡としている人間になってほしいとは思います。
――日本人はいつから損得に一喜一憂するようになったと思いますか。
やっぱり(太平洋)戦争に負けてからじゃないですか、自分の欲を前面に出してはばからなくなったのは。
戦前の日本ではどこの家庭にも神棚や仏壇がありました。私の家でも、父が毎朝神棚の前で手を合わせ、母が毎月一日と一五日に木の枝をお供えしていたのを覚えています。私は別に拝めともいわれなかったし、それにどういう意味があるのかもわかりませんでしたが、目に見えない存在に見守られているという意識はありました。そういうものをないがしろにしないのが、品格のある暮らしだったのです。
いまはないでしょ、神棚も仏壇も。そうすると目に見えるお金がいちばん大事になるのでしょうね。







