圧倒的な実績で外資系金融機関のトップトレーダーに昇り詰めた本村哲也氏。驚くことに29歳で年収は1億円を突破したという。彼は一体どんな手法で桁外れの実績を出し続けたのか? そこには納得の戦略と行動があった。本村哲也氏の著書『アメリカに訴えられた男/エリート外資系銀行員が嵌められた罠。そして奈落からの復活』(ダイヤモンド社)から、圧倒的な成功理由とその具体例を探る。

20代で年収1億円を稼いだ外資系トップトレーダーの驚きの手法・ベスト1Photo: Adobe Stock

世の中の全体認識が間違っているときに、その逆を突く

 本村のトレーダーとしての成功は群を抜いていた。同僚と比べて、文字通り実績が一桁違ったのである。なぜ本村は成功できたのか。

 本村は人より多くの時間をかけて世界経済の情報をインプットした。そして類まれなるコミュニケーション力でさまざまな人に電話し、いち早く独自の情報を手にすることができた。また読書家である本村は世界の経済史にも詳しかった。それらの情報を統合して大きな仮説を立て、リスクを取って大きく張る。その大胆なリスクの取り方は、学歴エリート集団である外資系金融機関のトレーダーにもなかなか真似できないものだった。

 本村が大儲けした瞬間に共通するのは、「世の中の全体認識が間違っているときに、その逆を突く」というものだった。

 1999年に、2000年を迎えるタイミングで世界中のパソコンが誤作動やデータ破損を起こすのではないかという風評が駆け巡った。いわゆる「ミレニアム問題」である。多くの他の銀行のトレーダーたちはリスクヘッジを迫られ、過剰に防衛せざるを得なくなり、高い金利で債券を借りまくっていたのだ。
 本村は「そこまでの事態は起こらない」と冷静に分析し、パニックで異常に高騰した金利を狙って、持っていない債券をどんどん貸し出すショート戦略をとった。他行のトレーダーも行内事情により債券を借りざるを得ない状況になっているだけだという情報を掴んでいたのだ。明らかに市場が歪んでいると確信し、マーケットに果敢に挑んだ。結果、年明けに何事もなかったことがわかるとレートは急落。本村は莫大な利益を上げて、銀行内での地位を確固たるものにした。

 2000年8月、日銀によるゼロ金利政策の解除についても、本村はこれが間違いであると確信していた。当時の日本はバランスシート不況(資産価値が急減し、民間は借金返済を優先するため、金利を下げても景気が回復しにくくなる状態)でデフレ圧力が強く、インフレに転じるような環境ではまったくなかったのだ。しかし日銀は、インフレファイターとしての矜持や80年代の失策の記憶が鮮明であったため、時期尚早な利上げを行った。
 マーケットはさらなる利上げを織り込みにいったが、本村は「これ以上の利上げは絶対に無理だ」と判断し、中短期の債券を買えるだけ買っていった。結果として、その後すぐに再利下げが行われることになった。本村は3000億~5000億円のポジションから10億円以上の利益を上げることに成功したのだ。

「下がり続ける相場はない」というのが本村の信念だった。物事の本質を理解していれば、たとえ今がどん底であっても、いつか運の流れが変わることを確信して耐えることができる。平時には秩序は入れ替わらないが、非常事態やパニック時には序列が変わる。大きな変化が起きたときに、状況をロジカルに把握し、恐怖を克服して適切なリスクを取れるかどうかが、その後の結果に大きな差を生むのだ。

「大量の売りで取引が停止するサーキットブレーカーのようなパニック局面こそ、最大の好機です。本質的な価値を理解していれば、パニックで必要以上に売られた資産はバーゲンセールに見えます。2001年の同時多発テロや2008年のリーマン・ショックのような異常な相場においては、周囲が動揺する中で状況を複合的に理解している者だけが、大きなポジションを取り、リターンを得ることができるのです」

 その後も本村の年収は実力と比例する形で右肩上がりに伸びていき、東京支店の責任者になった2002年、29歳で総収入が1億円を超えた。ラボバンクに移籍してわずか4年で、いわゆる1億円プレーヤーへの仲間入りを果たしたのだ。