シュンペーターが大臣職を去るきっかけの1つとなった「アルプス鉱山会社株」事件は、シュンペーターの学友でチューリッヒの銀行家、フェリックス・ゾマリーがシュンペーター辞任直後に政府の所有する同社株を買い取ることで終息した。1919年10月のことである。

 財務相を辞任するとウィーン市内の自邸に帰り、半年後の1920年4月、グラーツ大学教授に帰任する。さらにそれから1年3か月後の1921年7月23日、ウィーンのビーダーマン銀行頭取に就任することになるのだが、この間、1919年10月から1921年7月までの1年9か月間、シュンペーターの知的生産活動は極端に落ちている。

 著書は1919年に出版された『帝国主義の社会学』(★注1)1冊だけだ。論文は1920年に3本しか書いていない。1921年に入ると論文を7本発表し、徐々に増やしていることがわかる。日を追って学問の世界に復帰していったのであろう。銀行経営者のほうが論文執筆の余裕があったかもしれない。

 大臣辞職から大学復帰、そして銀行頭取に就任するまでの1年9か月、ウィーンとグラーツでたんたんと過ごしていたのだろうか。とくに1920年、この年にシュンペーターが何をしていたのかよくわからない。空白の1年間である。

 しかし、シュンペーターにとっては空白の1920年よりも財務大臣在任時(1919年3月から10月)のほうを後悔していたらしく、後年、この7か月間を、Gran Rifiuto (グラン・リフュート)、つまり「大いなる浪費」だった、とイタリア語の慣用句を使って述懐していたという(★注2)。

アルプス鉱山会社株を買収した
巨大企業フィアット

 イタリアの自動車会社フィアットは、3大銀行の1つ、クレディート・イタリアーノとウィーンの金融ブローカー、リヒャルト・コーラを通してアルプス鉱山会社株を大量に購入し、結果としてシュンペーター辞任のきっかけをつくったわけだが、辞任後にゾマリーが政府から買い取ったアルプス鉱山会社株の行方は、資料がまったくないので不明である。

 それまでの流れからいえば、ゾマリーからクレディート・イタリアーノを経由してフィアットへ売却されたと思われる。しかし、推測の域は出ない。