芸術村構想の具体化により、全国から芸術家たちが創作の場を求めて藤野にやってくるようになった。そして、この地に魅せられてそのまま移り住む人も現れた。

 こうした動きをキャッチした藤野町は「人の誘致」を政策として掲げ、移住希望者の相談に親身になって応じるようになった。当時は工場や企業、観光施設などの誘致に取り組む自治体がほとんどで、「人の誘致」による地域活性化は独自路線といえた。中心となって奔走したのが、町の若手職員だった。

芸術家の卵が本当に町を豊かにするのか?
町長は信頼して任せ、若手職員たちが奮闘

「県境にある藤野にはもともと外の人を受け入れる包容力や文化、風土があります。嫌だと言いながらもきちんと受け入れるのです」

 こう語るのは、町の担当職員だった中村賢一さん。当時、「人間を誘致することで本当に藤野が豊かになるのか」といった疑問の声も寄せられたという。なにしろ、芸術家といっても卵が多く、孵化するかどうかも本人にさえわからない。それでも中村さんらは相談に来る人を選別せず、一人ひとりに真摯に対応した。

「当時の町長が職員を信頼して任せてくれる方だった。細かなことに口出しせず、それでいて何かあったら自分が責任をとってくれる人だった。あの町長のおかげで思いっきり仕事ができた」と、中村さんは当時を振り返る。藤野町役場には変わり者職員がたくさんいて、しかも、生き生きと仕事をしていたという。

 藤野は「アートの棲むまち」として一部の間で知られるようになっていった。役場職員の面倒見の良さもあり、外国人の移住者や滞在者も増えていった。芸術家から始まった移住の波はより幅広いものへと展開していったのである。

 そうした展開の口火を切る存在となったのが、NPO法人「パーマカルチャー・センタ―・ジャパン」(PCCJ)の開設である。パーマカルチャーとは、「全て生物がより豊かに、持続的に生きていけるような環境をつくり出していくためのデザインと実践の体系」をいう。オーストラリアのビル・モリソンという人が始めた自然と調和した生活と生き方の提唱と実践である。そのパーマカルチャーの本部施設と農場が1996年に藤野の里山に開設された。きっかけはこうだ。