末續慎吾が日本人初の偉業を成し遂げたのは2003年のことだ。世界陸上パリ大会200m、短距離種目では日本人初となる世界大会でのメダル(銅メダル)を獲得した。5年後の北京オリンピックでは4×100mリレーに出場し、銅メダル(2018年に銀メダルに繰り上げ)を獲得。世界陸上、オリンピックを通じて、短距離種目で日本人最初のメダリストとなった。その後、長期休養を挟み、レジェンドは今も現役選手として走り続ける。この度刊行した初の著書『自由。──世界一過酷な競争の果てにたどり着いた哲学』は、「勝負」「目標」「夢」「練習」「人間関係」「師弟関係」「個性」などのテーマで「競争の哲学」を語った1冊だ。本稿では、特別に本書から一部を抜粋して紹介する。

末續慎吾写真:望月 孝

スポーツの世界でも蔓延するパワハラ

 ここ数年「パワハラ」という言葉をよく聞くようになった。

 スポーツの世界でもパワハラが問題として取り上げられることがある。

 僕自身もスポーツの現場でパワハラが行われているのを見た経験があるし、そんな時は本当に虚しい気持ちになる。

 パワハラは、指導者と選手の関係、教える人と教わる人の関係が、極端におかしくなってしまっている状態だ。

 だから、「なぜパワハラが起きてしまうのか?」ということを考えることは、言い換えれば、なぜ〈教える―教わる〉の関係がおかしくなってしまうのかということを考えることにもなるんだ。

「強引なパワー」と「必要なパワー」

 たとえば、練習の中で、監督やコーチから「100メートルを10本走ってこい」と言われて「走りません」と言い返す選手はなかなかいない。

 日本ではあまり見たことがない。どんなに苦しくたって、選手は、なんだかんだ10本走ろうとするだろう。

 教える側がこういった「パワー」を行使した時、教わる側が理不尽なパワーを感じたなら、それは「パワハラ」ということになる。

 指導者と選手の間には、〈教える―教わる〉という上下関係があるので、意思疎通をはからなくても、強引なパワーで指導することができてしまう。

 でもこれが指導において必要なパワーである場合もある。そうしないと教えられないことなんて山ほどある。それは誤解しないでほしいところね。

 では、なぜその当たり前の関係が「パワハラ」という問題になってしまうのか?