パワハラの根底にある「独りよがり」の心理

 それは、教える人が、「1人称」でしかスポーツを考えることができなくなってしまった時に、〈教える―教わる〉の関係がおかしくなってしまうからだと思う。

 たとえば、指導者が選手の目的や考えを無視し、「勝たなければ価値がない」「勝つためには手段を選ばない」と独りよがりの考え方をしている状態だ。

 ただ、残念ながら、選手として実績がある指導者ほど、「勝利=善」とする傾向がある。

 なぜならば、「自分の経験を肯定したい」からだ。

 「勝利やタイム、実績がすべて」。こんなふうな自分の経験からくる思い込みが強いから、選手に対して、勝ち負けにしか興味が持てない。

 はっきり言ってしまえば、教わる人が、教える人の欲望を満たすための道具になってしまっている状態に近い。

 たとえそういった師弟関係で試合に勝つことができたとしても、その関係のままスポーツを楽しむことは難しいし、実際にその後の関係も長くは続かないと思う。

 教える側も教わる側も、自分の立場だけでなく相手の立場から物事を見られるようにならなければ、信頼してともに真剣にスポーツに向き合う師弟関係にはなれない。

 だから、指導に必要なパワーすらも、ヒステリックに「パワハラ」などというしょうもない言葉で問題化しなければならない。

 指導現場では、指導者、選手の双方に成熟が必要だ。その成熟とはモラルだ。

 指導者側だけでも選手側だけでもない、このモラルの欠如が、現代のこんなくだらない問題を引き起こしている。

(本稿は、末續慎吾著『自由。──世界一過酷な競争の果てにたどり着いた哲学』の内容を抜粋・編集したものです)