時代や環境変化の荒波を乗り越え、永続する強い会社を築くためには、どうすればいいのか? 会社を良くするのも、ダメにするのも、それは経営トップのあり方にかかっている――。
前著『戦略参謀の仕事』で経営トップへの登竜門として参謀役になることを説いた事業再生請負人が、初めて経営トップに向けて書いた骨太の経営論『経営トップの仕事 戦略参謀の改革現場から50のアドバイス』(稲田将人著)がダイヤモンド社から発売。特別編としてお届けする対談形式の第4回。対談のゲストは、元豊田自動織機代表取締役社長・会長の磯谷智生氏。磯谷氏が二十数年にわたり直接の指導を仰いだ大野耐一。その大野耐一がつくり上げたトヨタ生産方式には、豊田佐吉と喜一郎が大きくかかわっていたという話の後編。好評連載のバックナンバーはこちらからどうぞ(構成/高野倉俊勝)。

大野耐一が作り上げたトヨタ生産方式には、2人の先人の叡智が生かされていた【後編】Photo: Adobe Stock

大野さんの指導を愚直に実行し、工場の生産性がいちばんに

大野耐一が作り上げたトヨタ生産方式には、2人の先人の叡智が生かされていた【後編】磯谷智生(いそがい・ちせい)
1929年愛知県生まれ。1953年名古屋大学工学部機械科卒業、同年、株式会社豊田自動織機製作所(現株式会社豊田自動織機)に入社、主に生産技術畑を歩む。課長時代から20数年間、自動車事業部にて大野耐一氏による直接の指導を仰ぐ。1978年取締役。1993年代表取締役社長に就任。その後、会長職に就任後2001年から相談役に就任。公職として1999年経済団体連合会常任理事、社団法人発明協会常任理事、社団法人中部生産性本部副会長、社団法人日本繊維機械協会副会長などを歴任。2002年大府商工会議所初代会頭、2004年大府商工会議所顧問に就任。1994年藍綬褒章、2001年勲二等瑞宝章受賞。

磯谷智生(以下、磯谷) 僕は、大野さんに20年以上、指導を受けてきた。僕はそのときに40歳ぐらいで課長になって、すぐの頃だったかな。他にもたくさん人がいたけど、みんな、大野さんが怖いもんだから逃げちゃってね。でも、僕は捕まっちゃったというか、よく言えば大野さんに見込まれたのかもだね。それで毎回、大野さんからいろいろと宿題が出る。「これをどうしたらいいか、まず考えろ」と。それで考えて、大野さんにこうしますと言っても、なかなか合格しない。しかし、その「方策」が合格すれば、次は「では、今日中にやれ」と言われる。次の宿題、つまり「方策」の実施を一晩でやってね。でも大野さんは、必ず、翌日にどうなったかを見に来られるからね。そういうフォローがちゃんとあった人だった。だから僕も徹夜をしてやったことが、たびたびあった。実際にできたものが合格したときには、感動があったね。

稲田将人(以下、稲田) 私が工場に在籍していた時にも、大野さんが来られていた記憶があります。大野さんは、そんなにしょっちゅう、当時の(豊田自動織機、自動車事業部の)長草工場に来られていたのですか?

磯谷 もう、しょっちゅうだった。大野さんみたいな実力者が、そんなに豊田自動織機へ来られたのは、当時、事業部長だった豊田芳年常務(後の社長、会長)から強く依頼されたからだと聞いた。長草工場がその後、トヨタの工場の中で一番になったことがあるのは、そういう大野さんに言われたことを愚直にやってきたからだよ。

稲田 一番にもなったことがあるのですか? どういう基準での評価なのですか?

磯谷 トヨタではグループ内の協力会社の車両の組立工場を含めて、Quality(品質)、Cost(原価・生産性)、Delivery(納期・リードタイム)で、全組立工場が競い合っていて、一番になった。

稲田 確かに私のいた当時も、工場全体が、真摯に課題に取り組んでいました。

磯谷 あなたがいた頃の工場のレベルは、まだまだだった。だから、皆、必死にやっていた。そして、当時、章一郎社長も、長草工場を見るようにと話されたと聞いた。もっとも、長草工場は規模が大きくはないから、Q・C・Dの効率を上げやすいという側面もあったけどね。

稲田 確かに、無駄に大きくない工場の方が、ものづくりの効率は高めやすいですね。