新党騒動で永田町が喧しい。
「たちあがれ日本」の結党に続いて、舛添要一自民党参議院議員も、橋下徹大阪府知事、東国原英夫宮崎県知事らと連携する形での新党結成を模索しているという。山田宏杉並区長、中田宏元横浜市長の二人も、国政をにらんだ首長連合を作ろうとしている。
そんなニュースが流れるが、世論は一向に盛り上がらない。それもそのはず、本コラムでも再三指摘しているように、野党から新党を目指す行為は、それが純粋な政治行動ではなく、単に自身の延命のための脱党行為にしか映らないからだ。
さらに有権者の感じるそうした胡散臭さにメディアが鈍感であることも、新党結成を目指す政治家たちの勘違いを助長させている要素であることも指摘せざるをえない。
報じる側の政治記者たちの多くは、55年体制の癖が染み付いたままである。自民党が下野しているにもかかわらず、その意味を忘れてしまい、政治的にインパクトの薄い野党の政治家の動きをさも重大であるかのように扱ってしまっている。
これも繰り返してきたことだが、与党には求心力、野党には遠心力が働くものだ。だから、現在の自民党の分裂騒動はあらかじめ予見できたものだし、大騒ぎするほどのものでもないのだ。
にもかかわらず、新聞・テレビは相変わらずだし、さらには在野精神を是としてきたはずの雑誌の中にも、そうした政治運動から距離を置くどころか、自ら進んで巻き込まれてしまっているものまで出現している。
一方の政治的意見ばかり
扱うようになった文春の変質
「文藝春秋」は、時の権力と対峙するという点において筆頭格のメディアであった。そこでは、さまざまな価値観を認め、自由な言論の場を提供しようという健全な精神に溢れていた。権力を脅かす役割を担う一方で、その権力側にも反論権も用意し、ひとつの雑誌の中で論争の舞台を作り上げるという懐の深い自由闊達さが「文藝春秋」の特徴であったはずだ。少なくとも執筆者のひとりであった筆者はそう感じていた。
だが、最近の「文藝春秋」はそうした部分で変質したと指摘せざるを得ない。