小学校1年からサッカーを始め、強豪チームで存在感を示すなど順風満帆なサッカー人生を歩んでいた元プロサッカー選手の中村憲剛。しかし小6の関東選抜で、初めて大きな挫折を経験する。自分の限界を知ったときに他責思考で成長をやめてしまう人と、そこで腐らずに“失敗を成長の糧にできる人”の大きな違いとは――。※本稿は、中村憲剛『才能発見「考える力」は勝利への近道』(文藝春秋)の一部を抜粋・編集したものです。

東京都の大会で優勝の
強豪チームで得た経験

 他でもない僕も、自分なりに挫折を味わっています。

2019年のサッカールヴァン杯で優勝を決め、カップを手に笑顔を見せる中村憲剛2019年のサッカールヴァン杯で優勝を決め、カップを手に笑顔を見せる中村憲剛 Photo:SANKEI

 僕は小学校1年から府ロクサッカー少年団(編集部注/東京都府中市で活躍する少年サッカーチームで多くのプロサッカー選手を輩出している)でサッカーを始め、3年時から1学年上のチームに混じってプレーしていました。当時はこの年代も11人制で、ひとつ上の先輩方の学年が12人しかおらず、ひとつの学年だけではチームを作ることができないので、僕らの学年から僕を含めて数人が呼ばれていました。

 幸運だったのは、その1学年上のチームがとても強かったことでした。東京都の大会で優勝するくらいのチームだったのです。

 その後、僕が5年の時に、東京都代表として夏の全日本少年サッカー大会(現在のJFA全日本U-12サッカー選手権大会)でベスト16まで勝ち上がりました。

「個」がしっかりと立っている選手が多く、小学校卒業後にヴェルディ川崎(現在の東京ヴェルディ)のジュニアユースに加入した選手がふたりいました。ふたりともジュニアユースからユースへ昇格し、関東大学リーグの強豪校へ入学し、ひとりはJリーガーになりました。

 そういう選手がいるチームに、おそらくは人数が足りなかったという理由で混ぜてもらい、試合で使ってもらい続けたことで自信をつかむことができました。

関東選抜では何もできず
自分の現在地を突き付けられた

 6年生になると東京都でベスト4に入り、僕自身は東京都選抜に選ばれ、関東選抜にもセレクトされました。グラウンドと宿泊施設を備えた千葉県の検見川総合運動場に北海道から九州までの地域選抜が集まり、2泊3日の日程で対抗戦が行なわれました。

 同世代のトップレベルの選手が集まる場所に、参加することができたのです。振り返るとここが、プロになるまでの僕のキャリアのピークでした。

 小学校卒業時点の身長は136センチで、同級生に混じってもかなり小さい。小さくてすばしこいので、スルスルとドリブルで相手をかわすプレーが得意でした。当時はパサーではなくドリブラーで、1.5列目で自由にプレーしていました。自分のチームではそれなりにできているな、という自負はあったのですが──。

 関東選抜では何もできませんでした。自分のプレーが何ひとつ通用しないのです。

 周りの選手たちは大きかった。九州選抜はフィジカルが強かった。東海選抜はテクニックがあり、化け物みたいに強かった。はっきりと覚えてはいないのですが、同学年の市川大佑、平松康平、森勇介といった、のちのJリーガーがいたかもしれません。東北選抜は粘り強い。地域ごとの色がすでにあり、そのなかで僕は何もできないのです。びっくりするくらい何も。試合に出るのが怖いぐらいでした。